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トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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トランシルヴァニアへの扉  - Erdely kapuja-のRSSフィード

ブログ翻訳

トランシルヴァニアの謝肉祭(1)

2月も終わりに近づいたある週末、
私たちはアパーツァ村に来ていた。
ブルン村の謝肉祭の初めの部分を見てから、
近くの知人の宅を訪ねていた。
ご近所さんがやってきて、帰り際に
「今日の午後までここに残らないんですか。
2時から、謝肉祭があるみたいですよ。」といった。
すると、マルギットおばさんも驚いたように、
今日が謝肉祭の日だったんだと思いだしたようだった。

アパーツァとブルンは、川向かいに位置するので、
普通は謝肉祭が一度に開かれることはあまりないという。
というのも、謝肉祭の後には必ず村のパーティが開かれるのが決まりで、
近くの村からも人がやってくるからだ。
ただ、今年は諸事情によりアパーツァでは夜のパーティはなく、
謝肉祭だけが開かれるとのことだった。

例年よりは暖冬だったとはいえ、まだ2月。
一日中表にいると身も凍えるようになる。
謝肉祭の行列はどこから出発するのかと気をもんでいたら、
村の女性に声をかけられた。
花嫁の家が近くにあるから案内してくれるという。
「去年はうちの息子が花嫁だったのよ。」と誇らしげに
写真を見せてくれた。
「ちょっと待っていて。」と家に走ると、
謝肉祭の名物といえるドーナツを袋に詰めて手渡してくれた。
それはまだ、冷たい手の中であたたかかった。

花嫁の家に入ると、
軒先につるしたリースが目に飛び込んできた。
馬も美しく飾り付けられ、準備万端。


   apacai farsang (7)


「ちょうど新婚の夜が終わったところだよ。」と冗談めかしていうご主人。
着付けをすると聞いていたので中をのぞかせてもらうと、
すでに衣装に着替えたふたりが仲睦まじく並んでいた。


apacai farsang (8)


村のはずれの方ですでに行列がすでに集まっているという噂を耳にして、
通りを下っていくと、セーケイの少女と少年が晴れ晴れしく行進してくるところだった。

apacai farsang (11)


アパーツァはバルツァシャーグ地方のはずれに位置する。
厳密には、セーケイ地方に接するため、
衣装にもセーケイの影響が多くみられる。
嫁入り前の少女が装うパールタは、
まるで宝石箱をひっくり返したように
きらきらとした飾りがひしめいている。
男か女か判断するのが難しいほどの美少年。
その姿は気高く、貫禄すら感じさせる。


apaca.jpg


ドイツ系のザクセン人の影響をうけた街並みに
蹄鉄の音を響かせ、夢のように消えていった。


apacai farsang (12)


村はずれの一軒家の前に、
巨大な小屋を積んだ馬車が立っている。
昔はポルノ雑誌の切張りで、唖然としたのを覚えているが、
今はだいぶんマイルドになって
水着姿の女性の写真が貼ってある。
屋根の上にはススキの穂、コウノトリがとまっている。


apacai farsang (19)


こんなところにも村ならではのジョークとこだわりが感じられる。


apacai farsang (2)


馬車の後ろと上には、それぞれ二体ずつ人形を引いている。
ロメオとジュリエットの名前書かれた、
アパーツァの衣装をきたカップル。


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大きく門が放たれた庭には、
羊毛で身を覆った少年たち、仮装をした人々に楽団が集っていた。
パーリンカやドーナツで前祝をしているところ。


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手に小さなかばんをさげた少年たちは、
黒い正装をして、前には小花柄の愛らしいエプロンを結んでいる。


apacai farsang (15)


やっと、花嫁花婿が到着して、
ブラスバンドの音色とともに行列が歩みはじめる。
馬はスカーフで結ばれ、
花輪を首にかけて、ポップコーンの飾りが楽し気な雰囲気だ。


apacai farsang (18)


十字路につくと、村人たちが行列を食べ物や飲み物で迎える。
黒い正装の少年たちに、お金を渡す人も多くみられた。
小さな村が活気をとりもどす美しい場面である。




花嫁行列の最後にいるのは、クマと呼ばれる羊の毛をまとった少年たち。
鎖で体を縛られ、飛び跳ねながら、
カラカラと鉄の鈴の音を響かせ、もう突進していく。
予想のつかない動きを見せるクマの群れは、
祭りをいきいきと、面白ろおかしく味付けているのである。


apacai farsang (4)


実は、このアパーツァは深刻な過疎化、ジプシー化に悩まされる村でもある。
美しい古い民家の並ぶ通りは過去の繁栄を物語っているが、
村はずれには、巨大なジプシーの地区が広がっている。
高齢化の進む昔からの住民(ハンガリー人、ルーマニア人)と
子どもの多い新しい住民(ジプシー)の対比が目にも明らかだ。
恐ろしいもの見たさにジプシーの子供たちが通りからやってくると、
このクマたちが弾丸のように追いかけるのだった。


apacai farsang (5)


日ごろの恨みを晴らさんとばかりに追いかける少年たちの姿は、
屈託がなく、笑いを誘う。
陰湿でなく、明るい祭りの中で行われるため、
良い意味でのストレス発散になり、
祭りというものが、そこで暮らす住民にとって大切なものであるかがわかる。
またジプシーのいたずらっ子たちも、
幼心に怖いものを知り、彼らの行動の抑制にもなるのではないか。

小さな謝肉祭ではあったが、
予想以上に満足をして、アパーツァ村を出た。
次に目指すのは、この日二つ目のブルン村の謝肉祭。





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comments(0)|trackback(0)|バルツァシャーグの村|2020-03-19_18:17|page top

「ひらけた眼で」

2月の終わりに、
私たちはクルージの町にいた。
今から20年以上前、大学生として
この土地を踏んで以来、私にとってここがトランシルヴァニアの門だった。
バベシュ・ボヤイ大学に編入し、
旦那と知り合ったのもこの町だった。
あれから、町は国際化、巨大化が進み、
学生時代の面影を残すのはわずかに旧市街しかない。

「ひらけた眼で」と呼ばれる、講演のシリーズがある。
世界各地で様々な経験をした人が、その個人的経験を語るというものだ。
90年からルーマニアも世界へ門を開いてから、
2000年代にはEUにも加盟し、
クルージには国際空港もできて、
世界を股にかける人も後を絶えない。
ユーラシア大陸、アフリカ、アメリカ、
さまざまな土地へ目的をもって赴いたトランシルヴァニアのハンガリー人が、
その経験を分かち合うというものだ。

友人のデメテル夫妻も、昨年の夏にこの場に呼ばれて、
ロシアのウドムルト共和国での日々や
昨年、町のダンスグループの学生たちとともに
ハンガリー人の遠い親戚であるといわれるウドムルトの地を訪れた経験を物語った。

司会役は、ラツコー・ヴァシュ・ローベルト。
友人によると、もともと劇団俳優の彼は
オペラ歌手としてもデビューし、
さては詩までも書くという多彩な才能の持ち主。
彼自身も、世界各国を訪れる国際人でもある。

彼が口を開くと、
とたんにその場はトークショーの空間へと早変わりする。
「皆さん、日本語が話せる人は少ないでしょうが、
日本発祥の言葉はたくさん知っているはずです。
アニメ、スシ、オリガミ、カラオケ、トヨタ、ヤマハ、スバル・・・。
スバルって、何を意味するか知っていますか?」
このように、遠く離れた国や文化をあっという間に
手の届く場所にもってきてしまう。
やがて、拍手に包まれて席についた。


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私がこの美しい記念館に初めて足を踏み入れたのは、昨年の秋だった。
ピアニストである友人が、ピアノのコンサートに誘ってくれ、
彼女の恩師であった、ジャルコシュ・マーニ・アルベルトについて話してくれた。
音楽教師でありながら、
シクやカロタセグなどフォークアートをテーマに絵を描いたという人物。
19世紀末の雰囲気さえ感じられるような、
幻想的な絵画はカロタセグの古い刺繍や織物の色である
紺と赤が基調となっている。
さらに部屋の一角には、彼の集めたカロタセグの調度品がしつらえてある。
そして記念館の責任者コーシュ・カティは、
トランシルヴァニアの偉大な建築家、文学者、政治家であったコーシュ・カーロイの孫である。


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カロタセグで暮らす、
ピアニストのレーカと画家のレベンテの子供たちも
はるばる駆け付けてくれた。


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トランシルヴァニアとのかかわりから、
トランシルヴァニアの手仕事にどのように興味をもったか、
日本で家族で暮らした日々に、再び日本の美を再発見したこと、
フィールドワークにあたって村でどのように日本人を受け入れてくれたか、など
二つの文化を並行した様々な質問が飛び交った。


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講演の最後には、サプライズもあった。
記念館の主催者コーシュ・カティや
司会者ラツコーの俳句詩集が贈れらた後、
観衆の中にいたシンコー・カタリンがカロタセグの教会の写真集を贈ってくれたのだった。
彼女は、80年代にイーラーショシュの図案集を収集した、村出身の民俗研究者。
かれこれ、7年ほど会っていなかった。


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風邪と長旅の疲れで頭はよく働かなかったが、
人々の温かな雰囲気に包まれて、1時間半が過ぎた。
クルージの町はすでにハンガリー多数の町ではなくなってしまったが、
その文化的生活は人々の努力によって支えられている。
今でも、ハンガリー人にとってトランシルヴァニアの中心地であることを再認識した。
こうして忘れられない夜は、幕を下ろした。


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comments(0)|trackback(0)|その他|2020-03-05_16:49|page top

祈り

カロタセグからの帰り道、
シギショアラのガソリンスタンドに立ち寄った。
日も傾きかけているころだった。

車を降りる旦那のところに、
一人のジプシー女性が近寄った。
棒に荷物をつるして、肩にかけた
見るからに物乞いのような姿の老婆だった。
「神様のご加護を・・・。」などを繰り返しながら、
何かを言い続けている。
なぜそんなに執拗についてくるのかとうかがわしく思っていると、
「ヘーヤシュ村まで連れて行ってって言っている。」と旦那。
こちらに意見を聞いてきたが、
「あなたの好きなように。」とだけ答えた。

ガソリンスタンドを出ると、
ジプシーの物乞いの子供たちが出口で待ち伏せていた。
そして、先ほどの物乞いらしき老婆もまだそこにいた。
旦那が支払いをしている間、
また来られると厄介だったので中に入って待つ。

おもむろに旦那が車の後部座席を片付けはじめた。
そこで、先ほどの老婆を載せていくことが分かったのだが、
私はどこか不安でいた。
もちろん貴重品はすべて私の身の回りにおいてあった。
無言で助手席に乗り、後部座席の後ろに
ジプシーの老婆が乗った。
その間も、先ほどの
神への感謝の言葉を唱えつづけていた。

車が動き、しばらく乗っていると
「神様、この人たちにご加護を与えて下さい。
子どももいますか。」と旦那に尋ねてから、
さらに子供たちのためにも祈りはじめた。
その祈りが延々と続くのだった。
ほかのジプシーの物乞いのように、
表面上で見せているのではなく、本物の信仰心からくる祈りであることがわかる。

曇り空からは小雨が降っていた。
後部から祈る傍ら、時々咳が聞こえてきた。
はじめ不安で仕方なかったのが、
だんだんとこの老婆に興味を持ちはじめた。

こんな時刻にどうして村に行くのだろう。
いや、きっと、彼女が病気のために
町の病院を訪れて、その帰りなのかもしれない。
行きは歩いてきたかもしれないが、
病気と疲れ、そして夜が近いために
差し迫られて(少し強引な)ヒッチハイクをしたのだろう。

私たちも若いころ、そして車がない7、8年前までは
ヒッチハイクをせざるを得ないことがよくあった。
やっと車という文明の利器を手にした今、
なるべく恩返しのために人を乗せるようにはしている。
それでも、マナーのない人も中にはいて、閉口することもある。

ルーマニアではだいたい公共交通機関の半分の値段の
お金を降りるときにお礼でするのが礼儀とされている。
一度カルパチア山脈の山間の町から
プロィエシュティの町まで乗った若い女性がいた。
子供連れで、大掛かりな荷物も持ち、
トランクに旦那の力を借りて入れた後は、
自分の気を引くようにおしゃべりをして、
1時間以上も乗った後、
降りるときには、道路の差し向かいのガソリンスタンドに入るように命令し、
旦那に荷物を下ろさせて、さようならだった。
いくらヒッチハイクで助けられた経験があっても、
こういう人間には腹が立つ。

多少の緊張もはらみながら、
だんだんと目的の村に近づいてきた。
「どこで降りますか。」と旦那が聞くと、
村のはずれの場所を差した。
お礼の言葉を告げて、老婆が降りた。

そこで、私は初めて
そのジプシーの女性の顔を見た。
彼女の顔に真剣さ、謙虚な面影が宿っているのを見ると、
自然とこちらも笑顔になった。
「さようなら。」と手を振ると、
老婆はドアを開けるように示した。
ドアから手を差し出すと、
その手に老婆はキスをしたのだった。
ドアを閉め、もう一度、私は笑顔で手を振った。

お金の問題ではない。
気持ちの問題なのだ。
良い判断をした旦那に感謝をしながら、
まるで右手に不思議な力でも宿ったかのように、
手の甲をさすった。














comments(0)|trackback(0)|その他|2020-03-03_08:29|page top

カロタセグの羊祭り

4月のある日、
ナーダシュ地方の村を訪ねていた。
羊祭りは、かつてどこの地方にも見られたという。
寒い冬を越すために村を離れて放牧をしていた羊が
春になって村に帰ってくることを祝う祭りである。
本来なら村に到着する前に、森の中で前夜祭があるらしかったが
昨夜は冷たい雨が降っていた。
台地はうっすらと緑色のじゅうたんで包まれている。

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なだらかな丘の曲線の向こうから羊の群れが確認できた。
村の楽団や、祭りを祝おうと遠くハンガリーから駆け付けた人々が
丘の上でひたすらに待つ。
そのゆっくりとした足取りを待つのも、悪くない。
祭りの始まりを楽団の演奏によって
徐々に気持ちを高揚させるようだ。
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羊の群れと落ち合い、いっしょに演奏や歌で祝ったあと、
今度は村へと降りていく。
ベージュ色した動物が怒涛のように押し寄せる様子は、
まるで洪水のようであり、圧巻である。

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雪解けで泥だらけになった道を、
羊とともに人の群れも突き進む。
そして面白いことに、
羊の背にはそれぞれカラースプレーで色が塗られている。
誰の所有であるかすぐにわかるようにだろう。

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いかにもカロタセグらしく、
パーントリカと呼ばれるリボンで飾られた羊。
晴れ着の衣装に使う、上質のリボンである。

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村の本通りに到着するや否や、
前方で大きな叫び声が聞こえた。
なんだろうと見やると、
村人たちがバケツ一杯の水を行列に引っ掛けたのだった。

どうして水をかけるのと聞くと
「羊に水をかけると、乳がよく出るらしいからよ。」と村人。
それでも、明らかに水は羊飼いや楽団のほうに向かっていた。

juhmeres (15) 
祝いの場にふさわしく、
艶やかな赤い衣装に着替えた人たちの姿も見られる。
もちろん、有名なダンスも見ものである。

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小さな通りを埋め尽くす、羊、羊、羊・・・。
イースターには子羊を食べるし、
羊のチーズはルーマニアでは牛のそれより重宝されている。
食卓には欠かせない動物である。

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祭りの様子を、楽し気に見守るおばあさん。
何度かこの見事な門の前でこのおばあさんを見たことがある。
いつか孫息子の写真をもっていったときには
お礼にネックレスを贈ってくれたこともあった。
門にはカロタセグの民族衣装を着た女性の姿や
天使のレリーフも見られる。

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中心の広場につくと、今度はお宿に向けて通りを進んでいく。
娘は、友人の長男ゾーヨムとくっついて離れない。

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この通りを進んでいるときに信じられない光景を目にした。
ちょうど目の前で、バケツの中をひっくり返す女性がいたのだが、
それは空っぽで、だまされたと安堵しているとたん、
その家の二階の窓からバケツ一杯の水が群衆に向けて引っ掛けられたのだった。
ものすごい声とともに、可哀想にびしょ濡れの楽団たちの姿があった。

何かの葉で水をかける人もいる。
水かけといえば、ハンガリー文化圏では、
イースターの月曜に女性に男性が水をかける習慣がある。
水とは春を連想させる何かなのかもしれない。

juhmeres (7)


こうして村はずれの宿につくと、
奥の納屋に羊たちは通され、そこで乳しぼりがはじまった。
こうして誰の家に一番多くチーズができるか競争するようだ。

juhmeres (8)

絞り終えた乳を入れた木桶を運び、
民家ではダンスが始まった。
きらびやかな衣装に身を包んだ少年少女たち。
音楽にダンス、そして春を迎える喜びが入り交ざって、
さらにいきいきと祭りが繰り広げられる。
小さな娘とゾーヨムも見よう見まねでステップを踏んでいた。
こうして、祭りは次の日までつづくようだった。

juhmeres (9)

生きることとは楽しむこと。
カロタセグの人々を見ていると、
いかに人生を楽しむことに熱心であるかがわかる。
家畜が家に帰るという出来事をも、お祭りに変えてしまう
人々のおおらかさが愛おしい。
今では、ハンガリーのフォークダンス愛好家たちに支えられて、
カロタセグの文化も勢いを盛り返しているようだ。
美しい衣装とともに、人々の娯楽の営みが続くよう願ってやまない。

comments(0)|trackback(0)|カロタセグ地方の村|2020-02-21_22:00|page top

トランシルヴァニアの伝統刺繍を訪ねる旅


この春と初夏の時期に
「トランシルヴァニアの伝統刺繍を訪ねる旅ツアー」を募集します。

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フォークロアの宝庫である、
カロタセグ地方とシク村で過ごす一週間。
シク村ではアウトライン刺繍を、
カロタセグではイーラーショシュ、ビーズ刺繍を
村のおばあさんたちに習います。

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また村のお土産やさんや100年以上の歴史のあるカロタセグの朝市も訪れます。
民俗学者Kallos Zoltanの博物館を見学したり、
各地にある、清潔の部屋を訪ねることもできます。

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イースターの時期には、
カロタセグ、ナーダシュ地方の日曜日の礼拝を、
初夏の時期には、
カロタセグ、上地方の信仰告白式の礼拝を見に行きます。

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極上の手仕事に見て、現地の素敵なおばあさんたちと触れ合い、
刺繍を体験することのできるツアー。
皆さまのご参加をお待ちしています。
(募集人数は5名さま以上で開催とします。)

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イースターを見る旅(初春のトランシルヴァニア)
4月9日(木)~15日(木)7泊6日 

信仰告白式を見る旅(初夏のトランシルヴァニア)
5月28日(木)~6月3日(木)7泊6日

ツアーの詳細、
お問い合わせはこちらまで

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comments(2)|trackback(0)|イベント|2020-02-14_20:41|page top

出発の日のトラブル

この長い冬のトンネルをくぐりぬけた後に
何か新しいことをはじめたいとき、
私の心は強く旅を欲する。
モノトーンな日常を大きく変えて、
心にも体にも活力をもたらしたい。
これまでにも、何度かそれを試みてきた。
ヨーロッパ内陸部の北国とは遠くかけ離れた、
どこか暖かい地中海の島へ
シーズンオフのこの時期に行くことにしていた。

去年は家族の都合で行くことができなかった。
次男の検査を、1月から4月の間ずっと待ち続けなければならなかった。
本当は去年のこの暗闇の時期にこそ、
旅が必要だったのだが。

こうして先延ばしになっていた旅を、
経済的に苦心しながらも計画した。
前日になるまでストライキを起こしていた旦那とのいざこざもあり、
それでもようやく出発の朝を迎えることができた。

前日までに荷造りしておき、
目覚まし時計より早く目覚めて、
移動の日の朝食、昼食を準備してタッパーに詰め、
台所を片付けて、
子供たちを起こして、服を着替えさせ、
時折、気になったことをPCで調べたりしながら、
私たちは午前9時前には車に乗り込んだ。

車に乗り込むとほっとして、
興奮のせいか、いつもより多弁になる。
カルパチア山脈を越えて、山間の美しい保養地を横目で見ながら、
山を下りて行ったところで、ものすごい渋滞であることに気が付いた。
幸いにも上がり方面ではなく、下り方面であった。
そういえば、その日から3日間の連休が明けたので、
ブカレストに住む人たちが休暇を過ごすために山間へ来るからだと旦那が言った。

何キロと途絶えることのなく続く車の列を見ながら、
驚愕し、憐れむ思いでこの都会の人々のことを考えていると、
ふと自分たちがこの渋滞をもし引き返すことになったらという疑問がわいて出た。
そうなると不安が止まらなくなり、
出発前に気がかりだった子供たちの出生書のことを旦那に尋ねてみた。
「日本のパスポート、持ってきただろう?」
予約の時にも、旦那と話しあったところ、
日本のパスポートだと時間がかかるから、
ヨーロッパの証明書だけで出国するのがいいという結論になった。
子供たちの持つ唯一の「出生証明書」で登録し、それをもってきている。
日本のパスポートの名前と、予約した名前が一致しないから
パスポートは持っても意味ないと思って、置いてきた。

何年か前に旅した時はどうだっただろうか。
遠い昔のことのようで、すっかり忘れている。
気になってたまらず、ハンガリーへ行き来している親しい友人たちに尋ねてみた。
どちらの子供も、ハンガリーから発行された身分証明書を持っているという。
「ちなみに出生証明書は?」と尋ねると、
「それでは国境を超えるのは無理だと思うわ。」との返事。

ここでさっと凍り付き、
ここまでの道のりを引き返すべきかと旦那と話しあった。
すでに3分の1の道のりを越えていて、
あと1時間ほどで、チェックインの時間がはじまる時間になっていた。
入国管理局に電話をして、
書類が不備であるかどうか確かめてから、
最後の手段で友人のボティを頼ることになった。

ボティにしたお願いというのは、
まず姑宅へ行ってもらい、我が家の鍵を受け取ること、
その足で我が家へ行き、自宅の奥底の隠し場所から
パスポートの入った入れ物を探してもらうこと。
最後に、その入れ物をもってこちらへ向かってもらうこと。

はじめは私たちも引き返し、
道中で受け取ることにしていた。
しかし、あの渋滞を見て、
さらに空港へと向かう道のりを考えると、
残り時間が少ないという結論にたどり着いた。

混乱した頭を整理しながら、
ボティに我が家の書類の場所、鍵の場所を教えなければならない。
私たちはブカレストの空港へ向かいながら、
ボティが姑宅で鍵を受け取り、
その足で我が家に入って、難問である
箱と鍵のありかを探り当てるのを
電話を通じて祈るような思いで見守っていた。

私の頭は最悪の事態まで考えておかなければならなかった。
もしボティが間に合わなかった場合、
先にパスポートなしで行ける旦那と長男に行ってもらい、
次のフライトで私が下二人を連れて現地で落ち合おうということになった。
時間を節約するため、私以外の家族は
先にセキュリティーチェックを済ませて、
パスポートコントロールの前で待っていてもらうことになった。

そして、私一人だけが
出発ロビーの掲示板の前に立っていた。
搭乗時間まで優に1時間半もある。
荷物に入りきらなかった、チャイルドシートを抱きかかえ、
時刻表を食い入るように見ながら、
時折、セキュリティーチェックの列が気になりうろうろすることもあった。

GPSによると、午後1時前後には到着見込みとある。
飛行機の出発は1時50分、搭乗開始時間は20分とあった。
そして観察していると、
航空会社によって搭乗の締め切り時間が違うのが面白い。
私たちの乗る格安航空会社WIZZAIRは、
出発時間の10分前までラストコールがかかっていることに安堵した。
計算をすると、出発30分前の1時20分ごろにセキュリティーチェックを終わらせれば
間に合うということになる。

真剣な表情でチャイルドシートを抱え立ち尽くす私のほうに、
レポーターの女性がやってきた。
ルーマニア語で何やら話しているのは、
ちょうど最新のニュースになっているコロナウィルスについてどう思うか、
旅行を心配しているか類の質問だった。
おおよその意味は分かるが、あいにくルーマニア語は話せない。
「ルーマニア語はダメなんですけれど・・。」という私に、
「英語でもいいんですけれど。」と離れないリポーター。
一刻の予断も許されないこの状況で、
そんな社会問題は考えも及ばなかった。
ごめんなさいと謝ると、彼らは立ち去った。

焦る私の心とは裏腹に、1時に向けて時計の針が近づいていく。
たまりかねてボティを呼ぶと、
あと10分ほどで空港に着くという返事。
空港の外で黒いホンダを探しているのだが、
それらしい車は一向に現れない。
もう一度呼び出すと、
ボティが焦った様子で、空港へ行く途中の曲がり角を間違えた様子だった。
誰かに道を聞くのが聞こえてくる。

あと少しで1時になるという時になって、
やっとボティの車が到着した。
チャイルドシートを助手席に放り込み、
金庫からパスポートを出して受け取ると、
心からお礼を述べて、ガソリン代だけ手渡した。
「残りは、帰ってからね。お礼をさせて。」とだけ言うと、搭乗口向かって駆け出した。

このように、波乱に満ちた旅の幕開けとなった。
汗だくになり、心身ともに疲労して
空を飛んでいると、改めて友人のありがたみに感謝した。
普通ならあり得ないようなことでも、
心置きなく信頼してお願いできるブラーガ一家。

曇り空の上に、夕日を浴びて浮かび上がるエトナ山。
私たちは、2時間のフライトでカタ二アに降り立った。











comments(0)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2020-02-13_23:00|page top

白銀の森


3週間の長い冬休み。
冬眠から目覚めたばかりの熊のような気持で、
日常がスタートすると、
その二日後には子供たちの体に異常が現れた。
次男の背中に見られる赤い点・・、
友人からいつか電話で言われたことがすぐに思い立った。

昨年の大晦日前、
友人宅でパーティがあって、
はるばるカロタセグからやってきた友人家族の
子供たちに数日後、水疱瘡の症状が現れたというのだった。
もちろん、その時点では誰も知らなかった。

すぐに幼稚園、学校の先生、かかりつけの医師に連絡をすると、
2週間の休みを言い渡された。
年末に交流した友人の子供たちにも皆、同じ症状が現れていた。

朝から晩まで濃い霧に包まれた、1月の半ば。
霧はいつしか氷となり、
町中に見事な樹氷がみられた。
子供たちが休みとなったその初日、
発疹のほかは特に症状もなく、機嫌もよかったので
森へ散歩に行くことにした。
車に乗りこむころには、運よく空も晴れてきた。

毎日が白い霧ばかりに慣れていた目には、
青空と太陽の光、
それらに照らされる白い森が眩しいほどに鮮やかだった。
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まるでデコレーションしたように、真っ白の木々。
いき慣れた場所なのに、目新しくてわくわくと胸が弾む。

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長く伸びた枝は、まるで砂糖菓子か氷菓子のよう。

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森の中に入ると、
さらにその興奮が高まり、
芸術作品のように美しい木の枝を観察した。

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結晶のような繊細な雪の粒。
自然のなす芸術は、魔法のように目をとらえて離さない。

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太陽の光が差すと、その美しさはさらに輝きを増す。
野生動物は、こんな白い森の中にいたら
身を隠す場所もないだろう。
鏡のように透明で、澄んだ色あい。

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さらに奥へ奥へと引き込まれていると、
次男が泣きそうな声で「寒い。」と訴えた。
まだ来て、1時間とたっていない。
後ろ髪引かれる思いで、森を何とか抜け出すと、
表は再び霧の世界に戻っていた。
遠くから馬車がやってくる。


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日常に訪れた幻想的なひと時に酔いしれて帰宅した後、
水疱瘡の子供は外出してはいけないということをはじめて耳にした。
それからも、自宅謹慎状態がつづき
やがて家族旅行の日がやってきた。



comments(0)|trackback(0)|自然、動物|2020-02-11_21:39|page top

コリンダ

例年よりも暖かな、クリスマスの日。
黒いクリスマスといわれるのは、
白い雪がなく、どこか暗い雰囲気があるからなのだろう。
普通なら家族で過ごすだけの静かな祝日なのに、
ルーマニア人の暮らす伝統的な村では、
冬の習慣コリンダがみられる。

隣のブラショフ県へと車を走らせた。
目指す村へ行く途中、
ちょうど民族衣装を着た少年たちが通りを歩く姿と遭遇した。
楽団も付き添い、手に籠を持っている姿も見られる。
ある家に入っていくので、
吸い込まれるように中へと入っていった。
中庭は、すでにお祭りの興奮が満ちており、
アコーディオンの音色と若者たちの陽気な歌声がこだましていた。
黒い上着の下には、白い羊皮のベストを着ており、
どれも色鮮やかな刺繍がほどこされている。

よそ者の訪問者であるにもかかわらず家の主人が手招きをしてくれたので、
よい場所で撮影をすることができた。
演奏を終えると、主人は若者たちを飲み物や焼き菓子でもてなした。
一息つくと、すぐに若者たちは
次の宿を目指して出て行った。

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目的としていた村では、
子供の小グループが歌を歌いに近所を回るだけのものだった。
たずねると、昨夜に若者たちの伝統行事は終わってしまったらしい。

仕方なく、フォガラシュ地方の北側へと向かった。
村で聞き込みをしていると、
明日の12時に教会の前であるという情報を得た。
その翌日、ルペアの近くにある村を訪ねることになった。

教会の前へ行くと、
確かに羊の毛皮のコートに身を包んだ少年たちがいた。
中には、地面に横になって眠っている者もあった。
たずねると、「大丈夫。もうすぐ、歌うよ。」という返事。

白い羊皮のベストに刺繍、
さらに目を引いたのは美しい帽子飾りだった。
色とりどりの造花に鏡が添えられ、
よく見るとひとりひとり違っている。

ルーマニア正教会の中で、神秘的な神父の歌声が響き、
中に置かれたクリスマスツリーが昨夜の祝日のにぎやかさを物語っていた。
しばらくすると、民族衣装をきた少女たちが次々と教会に到着し、
ミサの終わりに歌を歌いはじめた。
旦那を呼びに外に出ている間に、
今度は先ほどの少年たちが到着して、
すでに不思議なリズムの歌を歌っていた。

拍子抜けをするようにあっという間の出番だったので、
村人たちに拙いルーマニア語で尋ねてみると、
目的としていたヤギの人形の出番はすでに終わっていたようだ。
昨夜12時から朝までこの若者たちは村を回って、歌い疲れていたのだ。

がっかりとしながらも、何とか村のことを何とか聞き出し、
優しいおじさんが伝統的な住まいを見せてくれると約束してくれた。
こうして、おじさんの後をついていくと、
先ほどの若者たちがにぎやかに笑いながら通りを下ってくる。

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一人の少年を指さして、
おじさんは「あれが、うちの息子だよ。」といった。
集合写真を撮るときにも、熱心に上着を取れとか
親身になって指図してくれたのはそういうことだったのかと合点する。

おじさんはご近所の老夫婦の家に案内してくれた。
日本でいえばお正月に当たる、
最も神聖なクリスマスの祝日の昼、昼食前の微妙な時間。
断られても仕方ないのは覚悟の上だった。
しかし、優しい老夫婦は、外国人の私を喜んで迎えてくださった。
庭へと長く伸びた家の、道路沿いの一番奥の部屋を見せてもらう。
深い色あいの手織りの枕カバーが積み上げられ、
絵付家具に囲まれた心地よい空間。
何よりも家主のご夫妻に娘さん、通訳をしてくれたお孫さんの青年などが
親切にしてくださったことが何よりありがたかった。
民族衣装も見たく、聞きたいことも山ほどあったが、
「いつでも来なさい。」との言葉に甘えて、
今度ゆっくり出直したいと思った。
次の春に見られる行事を心待ちにしている。







comments(0)|trackback(0)|その他の地方の村|2020-02-11_21:06|page top

みやこうせいさんとシク村

私がみやこうせいさんの名を知ったのは、
大学でハンガリー語を専攻しているときだった。
トランシルヴァニアに留学をして、かえって来た後に
大学の図書館で「ルーマニアの赤い薔薇」を手に取った。
それは、トランシルヴァニアに対する恋しさを掻き立てたものだった。
原っぱの中で、紅の衣装に身を包んだ二人の女性がダンスをしている。
その表紙とタイトルの赤い薔薇は、シク村のことを暗示していた。
みやさんは70年代に結婚式の取材をしに村を訪れ、
そこで村人たちに受け入れられ、ルーマニアに対する愛がますます深まったとあった。

ブダペストで過ごした留学時代、
メトロの駅で群衆の中にひとつ紅の衣装が花のように浮かぶのを見ると、
トランシルヴァニアのことが思い出された。
それから約20年を過ぎて、
今、再びシク村と不思議な縁を持つことになろうとは思ってもみなかった。

今年の夏、武蔵野市とのかかわりで
小さな衣装の展示をさせて頂いたとき、
武蔵野市の広報課で写真を担当される方にお会いした。
お話ししているうちに、みやこうせいさんと親しいお友達で
ちょうどこれからお宅を訪ねる所だと話していた。
そして、午後に帰ってこられると、
私の名刺をみや先生にお渡ししてくださったという。

その夏に、みや先生から思いがけずメールを頂戴し、
胸躍る心地で読ませていただき、お返事をした。
今もルーマニアに変わらず情熱を注がれていること、
今年は3冊の本を出版される予定だと書かれていた。

夏の終わりをシク村で過ごし、
ベルタランの日に結婚式などを見た後、
我が家に帰ってくると、みや先生の出版したての著書が到着していた。
表には、カロタセグのきらめく衣装が
裏にはシク村の麦わら帽子と男性の衣装が大きくクローズアップされていた。
ハンガリー語、ルーマニア語、英語の三か国語で
みやさんとルーマニアとのかかわりがつづられ、
何十年もかけて取材した美しい写真の数々は、
それだけで多くのことを語りかけるようだった。

みや先生のように純粋な美を切り取り、
それを夢のように美しい絵として、文字として表現されること、
それを何十年もの間つづけることの偉大さが身に染みて感じられた。

ここで生活をしていると、
生活の垢にまみれて、美しいものに気が付かずにやり過ごしてしまう。
みやさんが他所から来られるからこそ、
その新鮮な感覚に現地の人間もはっとされるのだろう。
現在だけでなく、過去も見てきた目だからこそ、
なおさらその美しいものの価値を深く汲み取ることができる。

伝統文化の美しさ、そして失ってはじめて分かる儚さというもの、
それを常に追い続けていらっしゃる気持ちは、私も変わらない。
自分も新たな一歩を踏み出さなければいけないと、
先生の仕事を目のあたりにして思うところだった。










comments(4)|trackback(0)|その他|2019-12-12_18:01|page top

ジュジャおばさんと過ごす秋の関西

11月の半ばすぎのある夜、
私はただ一人ブカレストの空港にいた。
クルージから飛行機でやってくる、
シク村のジュジャおばさんを待つためだった。

その日、家族とブラショフで別れ、
マキシタクシーに揺られてカルパチア山脈を越えてきた。
私を見送るうちに娘が突然泣きだし、慌ててその車に乗り込んだ。
幸いにも次男は我が家の車の座席に座ったままで、
別れという実感がわかないようだった。
そして、私も同様に涙でかすむ目で家族に手をふり、
娘を生まれてはじめて置いて日本へ旅立つことに気がついた。

秋のマーケットへの誘いを受けたのはこの9月、
昨年末に病気をした次男の検査を終えて、
大阪行きの航空券を買った。
子ども三人を旦那に託し、この仕事のためだけに
帰国することを決心したのだった。

招聘客であるジュジャおばあさんにとっても、
このような大旅行は大きな決心であったに違いない。
アメリカやギリシャなど海外の旅の経験はあるものの、
私を信頼してこの仕事を引き受けてくれたのだろう。
航空券や宿泊は主催者側から保証されるが、
パスポート、保険などは自分の手でしなければならなかった。

そんなことを想いながら、
先ほどから群衆の中で紅色の姿を探しているのだが、
どこにも見当たらない。
タイムテーブルには、クルージからの飛行機の情報すらなかった。
さらには、私は携帯を自宅に忘れてきている。

国内線は、もしかしたら別の空港に発着するに違いない。
そう思うと、居ても立っても居られなくなり、
大急ぎでバスの券を買い、バネッサ空港へ向かった。
幸いにも30分ほどでついたのだが、
バネッサ空港は生まれて初めて来るところ。
入り口がどこにあるのかわからず、
うろうろしていると、ちいさなバスターミナル程度の建物はうす暗くて静かだった。
私以外に客がいない建物で人を探して尋ねると、
「国内線はオトぺ二空港よ。地下一階にあるの。」という返事。

またしても、バスを待ち、
オトぺ二空港へと引き返してきたのだった。
地下一階の出口前に、すぐに紅色の衣装を見つけた。
「もう、かれこれ2時間も待っていたのよ。
空港内をあっちこっちと歩き回って、疲れたわ。
それでも見つかってよかった。」
不安にさせたジュジャおばさんに申し訳なく、
また、こんな早とちりをする自分が可笑しくなった。
その日は、空港横のホテルで休んだ。

翌日、心地よいベッドでもっと眠っていたい気持ちをなんとか振り切り、
モーニングコールに出た。
時間は、早朝の3時半。
ジュジャおばさんは昨日の心配と疲れで
足の神経痛がひどく、眠れなかったようだ。
まだ真っ暗な空を飛行機は、ミュンヘンへ向かった。
5時間の待ち合わせ。
眠れず、疲れているおばさんのために心地よい待合室を見つけた。

リクライニングのシートで横になり、休みながら、
おばさんと話していると、隣から声をかけられた。
「ハンガリー語?懐かしい。」
青い目をした、美しい婦人だった。

30年代に両親がアメリカに移住したという。
「エゲルとプシュプクラダー二の出身よ。」
ジュジャおばさんとも意気投合し、
これから大阪で作るローズマリーの冠の写真を見せたり、
シク村のことを話したりした。
隣にいた二人の若い女性たちは、娘かと思ったら孫娘たち。
もうひ孫もいるおばあちゃんらしい。
ニューヨークで暮らす女性と、シク村で暮らす女性は、
ほぼ同世代であることがわかった。

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10時間半のフライトを経て、私たちは大阪に降り立った。
ここでもおばさんは眠れなかったが、
3座席を使い、横になれたのは幸いだった。
この日から、ハードな大阪の仕事ははじまった。

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クリスマス一色に彩られた会場に、
ワークショップスペースを有したブースが設けられた。
今回はこれまでにない、日替わりのワークショップを試みた。
カロタセグのイーラーショシュにビーズ刺繍、
シク村のアウトライン刺しゅうに、
アーラパタク村の編みクロスステッチ。
6日間で日に二回、全部で12種類のトランシルヴァニアの刺繍。

ブースの前には、シク村の花嫁衣装が立ち、
スパイシーで香り高いローズマリーの苗が並べられた。
ジュジャおばあさんが初日に、このローズマリーを使って
花嫁の冠を縫う様子を実演してくれた。
さらに印だけで図案を描かずにサテンステッチで刺繍をほどこす、
シク村の赤いバラのスカーフを縫ったり、
四角い枠にするアウトライン刺しゅうを披露してもらった。
二回目のワークショップが終わると、
長テーブルに腰かけて思い思いに刺繍をしていく姿も見られた。
母の生徒さんたちが毎日のように来てくださり、
おかげさまでブースはいつも賑やかだった。

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最終日近くなって、腰が痛くて立つのが辛くなった。
隣のブースにいたエストニア人のウッラさんがやってきては、
「大丈夫?」
「何か食べた?」
「少し座ったら?」と気遣ってくれた。

エストニアから日本に嫁入りし、
38年も暮らしているので日本語が流暢だ。
エストニアの母親が、あまりの辛さに旅立つ日に見送りに来ることができなかったことを話し、
「お母さんを大切にね。」といった。
母は毎日忙しく、販売の手伝いに来てくれていた。
帰り道で一緒になった日には、
美味しいあんパンやさんや、昔働いていたマッサージ店を見せてくれ、
ホテルまで送ってくれた。
この6日間を楽しく乗り切ることができたのも、彼女の優しさのおかげ。

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慌ただしい、一週間が終わると、
はじめて日本で過ごす休みの日が待っていた。
人の多い京都を避けて、奈良へ。
たくさんのシカに囲まれて、おばあさんも大興奮。

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愛情あふれる大阪の母と母親、そしてジュジャおばさん。
鹿児島生まれの足腰たくましいUさんの案内で、
奈良の町をどこまでも歩き回ったのもいい思い出。

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赤や黄色が入り混じる、日本の秋ならではの風景。
昨年も秋に来ていたのに、
ついに紅葉は見られずじまいだった。
この美しい秋を恵んでくれたことに、ただ感謝の気持ちでいっぱいだった。

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まるで夢のようにあっという間の2週間。
クリスマスプレゼントや日本食をいっぱいに詰めて、
私は3度のフライト、おばさんは4度のフライトで帰途についた。



comments(0)|trackback(0)|その他|2019-12-10_22:01|page top

モルドヴァの誕生日

10月の終わり、ある昼下がりに電話が鳴った。
1年ぶりに聴く声は、モルドヴァのチャーンゴー人の友人メリツァだった。
「11月24日に私の誕生日をひらくの。
ハンガリー人の舞踊ダンサーやインドから楽団(Dil Mastana)もやってきて、
盛大なパーティーになるから、家族も誘ってどうぞきてくださいね。」
懐かしい声と誘いを喜びとともに聞いていた。
しかし、あいにく11月の終わりは日本への帰国している時期だった。

連絡したいと思いながら、できなかった相手だった。
息子が病気になり、年末にもイースターの時期にも
訪ねたいと思いながら、遠出をすることができなかった。
1年半も会っていないのに誕生日に誘いを受ける、
以心伝心のような不思議な体験に胸が躍った。
彼女の誕生日の前に、思い切ってモルドヴァへ訪ねる計画を立てた。

モルドヴァのバカウ県は、
山を隔てただけで私の住むコヴァスナ県とは実は隣にある。
それなのに、モルドヴァと聞いて、
どこか世界の果てのような遠いイメージを覚えるのはどうしてだろう。
トランシルヴァニアに住む者にとって、精神的な遠さがあるに違いない。
100年前までは、確かによその国であったのだから。

しかし、モルドヴァのチャーンゴー人は
住み慣れたトランシルヴァニアを捨てて、山を越えて新境地へと向かった。
カトリック教と母国語ハンガリー語は捨てられずに、
いかに弾圧を受けようともずっと彼らの生活に寄り添ってきた。

カルパチアを越えて、山を下ると
いつも話題になるのが、コヴァスナ県と同じ地名が
モルドヴァの山向こうにいくつも存在する不思議だ。
おそらく、同じ人々が何らかの理由で移住していったからなのだろう。

タトロシュとスィレト(チャーンゴー人の方言で「愛」を意味する)と呼ばれる川の間に、
いくつものチャーンゴーの村が存在する。
2000年の1月に私が友人の写真家とともに
クレージェから徒歩で森を越えてたどり着いたレケチンは、
「神様の背の向こう」というハンガリー語の表現にまさにぴったりの
遠い遠いかなたの世界であった。
日暮れ時に、村の入り口にある産婆さんの家を訪ねて、
薄暗い小さな部屋にある機織り機と部屋中に飾られた色とりどりの織物。
モルドヴァの旅の中でも、それが最も印象に残る場所だった。
そして18年後、再びレケチンの村にやってきた。
今度は、合計で4度目の旅である。

村の入り口で電話をかけると、
「三つの像のところで、車を止めなさい。」とメリツァ。
村に入ると、あちらこちらでキリストの像が立っていた。
そして、三つの屋根つきの建物を遠くから見た時、記憶がよみがえった。

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車を止めると、マールトンおじさんが迎えに来てくれた。
2人の子供を伴って、持ち寄った食べ物や贈り物を持って、
大きな石がごろごろと残る坂道を登っていく。
坂の中途に、メリツァが妹さんとふたりで暮らす家があった。

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あたたかな太陽の光が差し込む室内は、
紫色で彩られ、色の洪水のような織物が主人とともに迎えてくれた。
「準備をして、待っていたのよ。」とメリツァ。
カトリンツァと呼ばれる巻きスカートに、花柄のスカーフを巻いている。

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家の中、絨毯として床に敷いている織物の
何と色の鮮やかなこと。
モルドヴァのくったくのなく、陽気な人々の心をそのまま織ったかのようだ。

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自家製のワインで乾杯をして、
モルドヴァ名物のジャガイモと羊のチーズ入りのパンを頂き、
ロールキャベツや鳥のスープ、ケーキなど、
次々とご馳走が広げられた。

私たちからのプレゼントは、
亡き舅が生前出版した、モルドヴァの民謡を集めた本だった。
同じ村の歌はあるかとリストを見ていると、
メリツァの名前が見つかった。
記録した年は、まだ彼女が23歳の頃だった。
今から30年以上前に、舅はこの家を訪ねてメリツァに会っている。
同じ歌を歌ってもらうようにお願いすると、
ハスキーな美しい声が美しい民謡を奏でた。

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メリツァは私と同じ年の妹とふたり、
畑仕事や家畜をこなしながら、機織りで生計を立てている。
この夏には、20着ほどチャーンゴーの衣装を作った。
さらにチークセレダの町でたびたび民謡やダンスも教えているという。

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坂道を下り、マールトンおじさんの家に向かう。
通りの風景ひとつにしても、レケチンの村は昔のルーマニアを思い出させる。

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マールトンおじさん宅でも、ワイン片手におしゃべりがはじまった。
メリツァが、この夏に起こった信じられない出来事を告げた。
「両親の死後も、ずっと行方の知れなかった兄を探し出して、
故郷に帰るように呼んだら、いきなり私たちをつかみ出して追い出そうとしたのよ。」
警察を呼ぼうとしても繋がらない。
親が遺した土地を相続しようとしたら、
実は祖父母の名前のままだったというのも、ルーマニアではよくあることだ。
メリツァはトランシルヴァニアの親しい友人に相談したら、
何人もが救いの手を差し伸べてくれた。
誰もが自分の敷地内に家を建てたらいいと言った。
最後に、彼女は思い切った行動をとる。
ルーマニア正教の神父に黒魔術を施すように相談したというのだ。
この話を、遠くに住む兄に告げた途端、騒ぎが収まったという。
警察にも、弁護士にも解決できない問題を、
こういう古い習慣がカタをつけたという事実に目を見張った。

マールトンおじさんの名付け親の家を訪ね、
行く先々で、リンゴやブドウ、ワイン、ちいさな織物、お菓子などをもらい、
すでに薄暗くなった村をあとにしようとしていた。

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最後の驚きは、旦那が以前写真を撮ったおばあさんだった。
去年の夏、上から下まで普段用の民俗衣装を身につけていた。
旦那ひとりがおばあさんと話し、
「家の前で待っているから、来なさい。」と約束事を交わしていたのだ。
真っ暗になった坂道で、おばあさんは大きな荷物を両手に立っていた。
誰を待っているのかと思えば、私たちだった。
私たちの車のところまで見送り、
ずっしりと重い荷物を手渡してくれた。
何キロもあるクルミと、骨付きの燻製肉だった。
村人にとって、大切な食糧であることはすぐに分かったので、
動揺していると、「あとで袋を開けたら何かわかるわ。メリツァには内緒にね。」と
いたずらっぽく指を口にあてた。
私も今日スーパーで買ったばかりのさまざまなものを袋に入れて手渡した。

誕生日を祝いに来たのに、荷物入れに入りきらないほどのお土産を逆にもらい、
心からのおもてなしを受けて、温かな気持ちとなった。
ここでは、お金では手に入らないもの、
人の繋がりがもっとも大きく、大切なものと人々は心底信じている。
普段の生活の中で見失いがちだった何かを思い出させてくれるようだった。







comments(0)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2019-11-20_17:54|page top

シク村チプケ地区の結婚式

結婚式の当日は、あたかも天からの祝福のように
抜けるように真っ青な空が広がっていた。
朝早くから、花嫁宅へと向かう車がひっきりなしに
我が家の家を通りぬけて行った。
目の前の公園には、美しく着飾った兄妹の姿があった。

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花嫁行列を今か今かと待ちわびる、ご近所さんたち。
元家主だったロージおばさんの姿も見える。

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カロタセグから友人一家も遊びに来ていた。
シク村の男性よろしく麦わら帽をかぶった男の子たち。

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町の出身の花婿や親類一同は、
車で村へやってきて、村の中心の教会の方から行列がはじまると耳にした。
かなたの方から、かすかな楽団の音色が聞こえてくるような気がした。
花婿行列の集団が小さく現れ、
見とれているうちにだんだんと近づいてきた。

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白いブラウスに黒いベストとスカート、
誰もが長く腰までのばしたお下げに赤いリボンが揺れている。
楽団の音色とリズムに誘われ、
足取りをそろえて歩む艶やかな人の群れ。
葦ののびた石橋を渡って、我が家の前を通り過ぎていく。

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ふだんは静かな通りが人の活気で満ちている。
ご近所たちが見守る中を、行列は晴れ晴れしく歩みを進ませ、
花嫁宅に到着した。

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ボクレータの飾りをつけたのは、ブーフェイと呼ばれる男性。
昔は花嫁行列の先導者だけで、
それは花嫁花婿の近い友人の内から選ばれていた。
今では、村の美しい晴着を着させたい親心から、
親戚の子どもたちは皆がボクレータを装うという。

szeki lakodalom (29)

行列が花嫁宅へ吸い込まれるように消えていくと、自然と小休憩に入る。
中では行列のもてなしと、花嫁の「手をもらう」、
つまりは求婚の儀式が執り行われる。

やがて昼食の後に、花嫁が登場した。
まるでクジャクの羽根のように鮮やかなローズマリーの冠を頭にのせて、
その姿はまるで王女さまのよう。

szeki lakodalom (38)

2人の先導人、花婿、
花嫁とその付添人が手をつなぎながら歩き、子どもたちがつづく。
この通りを何度となく、幸せな花嫁花婿が歩んでいったのだろう。

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カルバン派教会では、神前での結婚の儀式と礼拝が行われていた。
子連れの私たちは、外で待機することにした。

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教会の広い庭をかけっこしたり、落ち葉で遊ぶ子どもたち。

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小さな参列者たち。
村の美しい衣装を着させたいとする親心が、
今にまで職人技を続けさせる原動力になっているのだろう。

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できたばかりのローズマリーの冠は、
彼らが家に持ち帰ることができる。
結婚の日までにいくつのボクレータが集まるのだろう。

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結婚式の翌日の朝、
朝食を取った後、帰りの荷物をまとめていると、
ドアをノックする音が聞こえた。
振りかえる間もなく扉がひらいて、
近所の花嫁さんの母親が皿にいっぱいのったケーキを手にのせて立っていた。
突然のことで驚きふためいていると、
テーブルの上にケーキのお皿が置かれ、
「おすそ分けよ。」とはじめてその顔が微笑んだ。
ピラミッド型に美しくのせられたケーキの山に
子どもたちの目は釘付けとなった。
何名もの女性の手で作られた何種類ものケーキを
ほおばりながら、結婚式の楽しい余韻に浸っていた。



comments(0)|trackback(0)|セーク村|2019-11-15_00:00|page top