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トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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トランシルヴァニアへの扉  - Erdely kapuja-のRSSフィード

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刺繍の達人おばあちゃんたち

7月下旬にトランシルヴァニアからワークショップをお届けする

支援型プロジェクトは、新しい可能性を示してくれた。

5月28日に募集を開始して、5日後には目標金額に達することができた。

私自身も信じられないほどの反響に驚いている。

応援してくださる方々の気持ちが後押しをしてくれ、

これまでにないあり方のワークショップを実現することができそうだ。


まずはじめに、おばあさんたちに連絡を取り、

この良き知らせを伝えることに決めた。

私はふだん電話でのコミュニケーションが得意でない。

特に用事がないときに、人を呼びだし、

何となしの会話をするのが苦手だ。

しかし今回は大切な報告があるので、心は弾み、ボタンを押した。

はじめに、ビーズ刺繍のエルジおばあさんを呼んでみたが、出ない。

次に、シク村のエルジおばさんの番号を押し、懐かしい声が飛び込んできた。

ちょうど今、娘さんの住む町から帰ってきたところで、

片足の痛みのためにマッサージに通っていることを話した。

「いつ家に帰ってくるの?」おばさんは尋ねる。

シク村に古い家をもつ私にとっては、もう一つの故郷である。

それなのに、200kmの距離は遠く、なかなか帰ることができないでいる。

我が家の庭にも草がぼうぼうに茂っていることなども聞き、

古いが美しい家に対して、何とも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

そして、ワークショップの話をもう一度詳しく聞かせると、

「ええ、いつでもいらっしゃい。待っているわ。」と

いつも包み込むようなエルジおばさんの声が耳に残る。


erzsi kicsi


イーラーショシュの図案描きアンナおばさんの電話は、電源が切れている。

普段はよく電話に出ることのないアーラパタク村のピロシュカおばあさんが、

珍しく電話を取ってくれた。

調子を聞くと、あまり良くないと答える。

それもそのはず、6月初めなのに寒波がやってきて、

連日雨ばかりで肌寒い日が続いている。

「私はやることがなかったり、閉じこもって人に会わないでいるとき、

調子も悪くなるのよ。」

80代半ばでひとり暮らしのおばあさんは、

ここ数年で目に見えてやせてきて、私も心配している。

もしかしたら当日、体調不良になってしまう可能性もないわけではない。

他にも、刺繍ができる人を迎えようと提案をすると、

「大丈夫、私一人でできるわ。

忘れたの?あなたにだって教えたじゃない。」と強気な返事が返ってくる。

おばあちゃんの声がだんだん力強さを帯びてくるのを感じ、

安心して電話を切った。


piroska.jpg


しばらくして、エルジおばあさんから呼び出しがきた。

いつもなら、おばあさんから暇なときに電話をかけてきてくれる。

「今ちょっと仕事があってね。」と前置きをしてから、

「ね、今どんな仕事に取り掛かっているか分かる?」といらずらっぽい口調で尋ねるので、

こちらが興味を持つと、

「我が家にお風呂場を作っているのよ!」と重大ニュースを打ち明けた。

伝統的な村の住まいには、風呂場はなかった。

昔はどこの家庭でも、たらいで体を洗うのが普通だった。

「まさか70過ぎてから、こんな大掛かりなことをするなんて夢にも思わなかったわ。」

ひとり息子のバンディはもちろん手伝わないし、

働き手を雇って工事をしているという。

ワークショップのことを話すと、

「私がそれまで元気だったら、もちろん手伝うわ。」と張りのある明るい口調で答えた。


erzsi2 kicsi


何度かけても、アンナおばさんの電話につながらない。

クルージの町に住む娘さんに尋ねてみると、夜なら出るだろうとのこと。

ちょうど自宅でお風呂に入っているときに、電話をもつ旦那の手がのびてきた。

アンナおばさんからだった。

ペトリ村は、ほとんどが未亡人のおばあさんたちでなる小さな村だ。

70歳のアンナおばさんはそれでも若い方で、教会のオルガンも弾き、

皆に頼られるしっかり者だ。

何よりも、イーラーショシュの図案を創造性豊かに描く、芸術家でもある。

5年ほど前からパーキンソン病を患い、

健康の状態も年々衰えていっているのが分かる。

ワークショップのことを話すと、「いいわ。」としっかりした答えが返ってきた。

数年前に、雪の積もる中、文化服装学園の社会人講座の受講生の方々といっしょに村を訪ね、

村のおばあさんたちと刺繍で交流をしたことが忘れられない。

女性特有の活気と、共通の趣味でつながる想いは、

時に言葉の不自由さも乗り越え、心と心でつながる時がある。

あの奇跡のような時間を、もう一度と心の中で思い描いてきた。


anna.jpg


私たちを隔てる距離は大きいが、刺繍を通じて見えない手でつながっている。

その手がさらに一人、もう一人と繋がっていき、

ひとつのものを作り上げることができたらどんなに素敵だろう。

今ここでできること、

ここから発信できること。

その力を信じ、ワークショップを成功させたい。


トランシルヴァニアから伝統手芸を広めたい!
(Onlineワークショップproject)
現在も支援者を受け付けています。

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comments(0)|trackback(0)|その他|2021-06-03_21:32|page top

トランシルヴァニアから伝統手芸を広めたい!

トランシルヴァニアから伝統手芸を広めたい!(OnlineワークショップProject)

kicsi2.jpg


フォークロアの宝庫であるトランシルヴァニア地方。

現地では手仕事の担い手が高齢化し、その存続が危ぶまれています。

このコロナ危機の中、お年寄りのおばあさんたちは

人々との交流の機会も失われている現状ですが、

現地のおばあさんたちを元気にしつつ、

私たちも手仕事のメッセージを受け取り、お互いを活気づけるプロジェクト。

カロタセグ地方、シク村、アーラパタク村など、

現地に13年在住の伝統手芸研究家が皆さまとトランシルヴァニアのおばあさんたちとの

橋渡しをして、皆さまに手仕事の素晴らしさを伝えます。


kicsi1.jpg


プロジェクトが成立しましたら、

7月に、現地のおばあさんたちから

手仕事のレクチャーをしてもらえるワークショップを企画いたします。

お忙しい方でもご参加いただけるよう、

時間帯や日にちもいくつかお選びいただけます。

(ワークショップ不参加の方には、刺繍の品々やキットなどのリターンをたくさん準備しております。)

日本にいながらにして、まるでトランシルヴァニアの村々を旅するような

そんな体験をしていただけます。

たくさんの方々のご応募をお待ちしております。


kicsi3.jpg


目標金額10万円

(おばあちゃんたちへの謝礼、カメラマン謝礼、現地までの交通費、宿泊費、

ビデオカメラ、マイク)


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ワーク・ショップ日程

7月22日(木・祝)午後3時~5時(現地時間午前9時~11時)

アーラパタク村編みクロスステッチ刺繍

7月23日(金・祝)午後3時~5時 (現地時間午前9時~11時) 

カロタセグ地方ビーズ刺繍 

7月24日(土)午後3時~5時 (現地時間午前9時~11時) 

カロタセグ地方イーラーショシュ  

7月25日(日)午後3時~5時 (現地時間午前9時~11時) 

シク村アウトライン刺繍 


1つのワークショップにつき、2千円でお申込みいただけます。

(45分+休憩15分+45分+質問等15分)


*材料はそれぞれ、各自でご準備いただけますようお願いいたします。

FOLK ART TransylvaniaのHPでも販売しております。


*参加者の方々にはZOOMミーティングをダウンロードしていただき、

それを通じてワークショップを行います。(1回につき100名まで参加可能)

ワークショップ数日前に一度テストをいたします。


*お申し込みはこちらから

(7/17日で募集終了となります。

(たくさんの方に知っていただくため、ご賛同頂ける方には拡散をお願いいたします。)



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comments(0)|trackback(0)|イベント|2021-05-28_17:14|page top

「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」

イディッフの柴田さんと知り合ったのは、

3年以上も前のことだ。

梅田の催事で、チェコの文化を紹介するブースを持っていた彼女が、

いずれ刺繍の展示を企画したいと話を持ち掛けてくださった。


2年前の秋には、トランシルヴァニアに下見に来られた彼女をご案内した。

和装姿の柴田さんをお連れして、

ブラショフの民俗博物館、サチェレの民俗博物館や村の織り工場、

そしてセーケイ民族博物館を一通り見て回った後、

我が家のコレクションをお見せした。

最後には、アーラパタク村のおばあさん宅で実際に村の刺繍を見て頂いてからお別れした。


その間にパンデミックが到来し、

この企画も立ち消えになったと思い、諦めていた頃、

昨年の秋の終わりに連絡がきた。


こうして展示品のリストの作成、

展示品の解説や目録の記事の執筆、

現地の写真家を探し、展示品の写真撮影、展示品の発送など。

この数か月は、この仕事でかかりきりになった。


気が付くと4月、

企画展の告知もはじまり、

やっと展示会が近づくという実感がわいてきた。

残念なことに、私は自分の目で展示を見ることができないが、

刺しゅうを愛する人々に、

トランシルヴァニアの衣装と刺繍の美しさを十分に堪能してほしい。





横須賀美術館の企画展「糸で描く物語 刺繍と、絵と、ファッションと。」が


4月24日(土)~6月27日(日)まで開催されます。



ExytqWRUcAkHrkv.jpg



ショップオーナー所有のトランシルヴァニアの伝統衣装と刺繍が30点展示されますので、


ぜひこの機会にご覧くださいませ。


期間中はキットや刺繍作品など、ミュージアムショップでお買い物もできます。


ファッションプレス誌からの紹介はこちら


横須賀美術館HP

横須賀美術館FBページ(展示場の様子がご覧いただけます。)





comments(0)|trackback(0)|イベント|2021-04-01_16:41|page top

リアの声

それは去年の春の日だった。
外出禁止令が発令され、
私たちの生活が見えない紐で縛られるようになってくるのを
感じ始めていたとき、電話が鳴った。
「もしもし、セイコ!」
第一アクセントが強く発せられるハンガリー語に対し、
ルーマニア語では真ん中が強くなる。
それが数少ないルーマニア人の友人リアであることが、すぐにわかった。
電話番号が変わったのか、音信不通となり、
久しぶりにかかって来た電話だった。

「私は病気なんだけれど、
うちに注射に来てくれる近所の看護師さんがハンガリー人で、
久しぶりにハンガリー語で話したところよ。」
と彼女は楽しそうに話す。
トランシルヴァニア地方でルーマニア人とハンガリー人の確執があるのは事実だが、
もちろんそれは人によって違うし、
何よりトランシルヴァ二ア人はそんな偏見を持たないのが普通だと思う。
彼女は、クルージュ県トルダの近くの村出身で、
小さいころからルーマニア語、ハンガリー語が聞こえてくる環境にあったという。
変なプライドは持たず、ハンガリー人には進んでハンガリー語を話すし、
彼女は自分がもう一つの言語を持つことに誇りを持っているように感じる。

今から21年前の大学生時代に、
単身でトランシルヴァニアにやって来た私が
彼女の娘デリアとルームメイトになったのは幸運なことだった。
北部の町ビストリツァで生まれ育ったデリアは、ハンガリー語はできなかった。
高校生で英国留学をしたので、流ちょうな英語を話した。

ある日、娘に会いにやって来た母親がはじめて対面するなり、
「私はあなたのルーマニアの母親よ!」と迎えてくれたのだった。
同じ年ごろのデリアより、
不思議と母のリアの方が親しくなっていた。
無邪気で屈託のない彼女は、
時にまるで子供のような態度でデリアに叱られていた。
「気をつけないと、先生に怒られるから。」といたずらそうに
娘の顔をうかがっていたものだった。

彼女たちが信仰するバプティスト派の教会にも呼ばれていったことがあった。
お説教も、ミサの雰囲気もひとつも心に響くものはなかったのだが、
リアの手をとって祈るときだけ、
彼女の心の中に神が感じられるようだった。

彼女は愛を実行することのできる人だった。
見知らぬ人でも困っている人なら誰にでも救いの手を差し伸べた。
ある日、ハンガリー人の年寄りの女性が一人暮らしで困っているからと誘われて、
一緒に高層アパートの最上階へ訪ねたこともあった。
リアもそれほど深く知っているわけでないらしかったが、
構わず食べ物を差し入れ、一人で孤独な女性の話相手になっているようだった。

10年前に一度、彼女に出会うことができた。
クリスマス前のある日、クルージュの町の喫茶店で、
彼女は魔法のような手料理(持ち込み)で私たちをもてなしてくれた。
その時に、乳がんの手術をしたことを話した。

娘のデリアは、大学を卒業して以降ずっとイタリアで働いている。
彼女とFBで繋がり、母親の様子を尋ねてみたのだが、
「毎日、生きていることが奇跡。神に感謝している。」という漠然とした答えしかなかった。
恐らく、病気が再発をしたに違いない。
暗い予感の中で、彼女の明るい声の調子だけが心を軽くしてくれた。
それから、何度か電話を試みてみたことがあったと記憶している。
いつでも電話をとれる状況でなかったのかもしれない。

3月10日、彼女の誕生日というリマインダーが来た。
彼女のページに誕生日を祝うメッセージを残したが、
デリアに「もし調子が良ければ、電話をしたい」という旨を伝えた。
数日後、返事が来て、
「調子はまあまあ。それでもあなたからの電話は嬉しいだろうから、試しにやってみて。」
という言葉に励まされ、彼女のダイヤルを打った。
しばらく待って、電話口に出たのは男性の声だった。
拙いルーマニア語で、自分だと伝えると、
彼女に電話に出られるかと確かめてから、受話器を彼女に渡した。

彼女の声は小さかった。
「セイコ、病気だから、あまり長くは話せないかもしれない。」
といいながら、咳をしていた。
「誕生日だから、電話をかけようと思ったの。
すぐにでも飛んでいきたいけれど、今の状態ではとても・・。」と私は弁解した。
「COVIDね。」と彼女。
「ちいさな孫の写真を見せたいから、送るわ。What's UPは持っている?」
「ええ、息子が先日ダウンロードしてくれたから、探すわ。」
今のひと時を噛みしめるようにゆっくりと話した。
「今は歩けないけれど、
神様が助けてくれて、元気になったら、また会いましょうね。」
「ええ、必ず。」と私は声の調子を強くした。
「私の電話で出られなかったら、主人の番号を鳴らしてちょうだい。」
彼女の話すルーマニア語の番号を集中して書き取った。
咳をする彼女に、
「病気なの?」と自分でも子供らしいと思いながら尋ねると、
「ええ・・。でもそんなに悪くないわ。」と少し余裕を感じさせる軽い口調で言った。
「神様のご加護を。」
「神様のご加護を。」と言って別れた。

すぐに慣れないスマートフォンをいじって、
彼女の連絡先を検索したのだが、出てこない。
リストにも名前がなかった。
どうしたのだろうと思っていたら、
デリアが私を探し出してくれ、彼女のアドレスを教えてくれたのだった。

デリアの送ってくれた写真。
白髪のリアが、ベッドで手を振ったり、明るくふるまっている写真から、
天使のような赤ちゃんを膝に抱く、車いすの姿、
やがて、ベッドの上で半年くらいの動き盛りのお孫さんを抱く姿など。
この半年くらいの間で、みるみるうちに痩せて年を取っていく
彼女の様子が克明に記録されていた。
それでも、病人の姿は哀れをそそるものではなく、
彼女の内面から発せられる明るさで満ちていた。

彼女のコンタクト先を見ると、
2,3週間前から誰かが写真付きのメッセージを立て続けに送ってきて、
閉口していたのだが、その相手だった。
色とりどりの花束に詩が載せられたものを長女が眺めながら、
私の携帯の待ち受け場面に設定していた。
彼女が前から、サインを送っていたのに気づかずにいた・・。

私が彼女にしてあげられることはないだろうか、と思いめぐらせていたら、
ふと、思いついた。
この週末に、シク村の家でガスを引く手続きをしに行こうと思っていた。
それでは、いっそ、北上してビストリツァに寄ってはどうか。
彼女に会えなくても、ご主人を呼び出して、
誕生祝いに花束を届けることならできるかもしれない。
運がよければ、窓から私たちの姿も見えるかもしれない。
そう決めて、デリアにその旨を伝えると彼女も喜んでくれた。

やがて、リアから録音メッセージが届いた。
「ハロー、セイコ。セイコ・・・。」
私はそれを聞くとほっと安心して、
後でメッセージを送ろうと思い、携帯を閉じた。

もうひとつ、プレゼントを思いついた。
それを英語に訳してみよう。
デリアならルーマニア語に訳して、彼女に届けることができるだろう。
その日の午後をかかりっきりで、
辞書を引き引き、何とか訳し終えた。
「これは、あなたたちへのプレゼント。」とデリアに送った。
「あなたは、私たち家族にとって特別の存在よ。」とデリア。
「私にとってもよ。あなたたちが私のトランシルヴァニアへの扉だったの。」
素敵な家族に迎えられ、孤独だった私はひと時の安息の場を得た。
そして、のびのびと留学時代の半年を過ごし、
それが私の一生を大きく変えることになったのだ。

その翌日、カロタセグから友人一家が訪ねてきて、
共通の友人宅で会うことになっていた。
楽しい再会にお昼までごちそうになってから、
午後は出発のための準備をして、お菓子を焼いたり、
食事の準備をしたりで忙しかった。
やっと、食べ物の準備ができたと気が抜けたとき、
携帯の着信がなった。
ルーマニア語で何か書いてある。
旦那に頼んで読んでもらった。
「ママが、今日の午後亡くなった。」

ああ、リアのことだった。
しばらく、脱力感で呆然とベッドに座っていたのだが、
やがて、自分の無力さとこの10年という時間が悔やまれて仕方なく、
とめどもなく涙があふれてきた。
あの時、彼女は最後の力を振り絞って、私と話したのではないか。
訪ねようと思えば、彼女の元へ行けたのではなかったのか。
無為に過ごしたあの時期に、彼女のために何かしてあげることはなかったか。
後悔がとめどもなく、押し寄せる。
次男が心配そうに私を見つめ、
「元気になって。僕、いい子になるから。」と慰めてくれる。

明け方、長男が原因不明の腹痛を訴えていたが、
夜にまた痛みが出てきた。
旦那が救急病院へと連れていく。
盲腸になる一歩手前とのことで、痛み止めでもし治らなければ
手術が必要だということだった。
こうして、私たちの遠出の予定は引き伸ばしとなった。

会いに行く予定だった日曜の朝、
ベッドの中でデリアに返事を書く。
「彼女は遠くへ行ってしまった。
やさしい両親と天国で会えますように。
彼女は病気で苦しんでいるときでも、
私をはじめ他人に優しさを届けてくれた。
彼女のことが、ただ恋しい。」
「彼女はあなたの声が聴けて幸せだったわ、そして次の日のメッセージも。
今はきっと天国にいて、神様の威光の元で永遠を楽しんでいるに違いないわ。」
彼女からの返事にほっとした。

火曜日の昼に、リアとの告別式がある。
10年ぶりの再会がこんな形でやってくるのはやるせないが、
彼女との別れのためにビストリツァへ。

comments(0)|trackback(0)|その他|2021-03-15_23:17|page top

馬車の散歩

3月のある日曜日、
隣の村に住んでいる旦那の異母兄を訪問することになった。
亡き舅の墓参りをしに、毎年11月に故郷の村へ出かけるほかは、
普段あまり会うことがない。
その兄と、しばらく音信不通となっていた。

昨年の死者の日の前日に、
何度か電話をしても出なかった。
年末にやっと電話をかけて、事情を知ったのだったが、
去年の春に大きな病気が見つかり、
手術やその後の精神的ショックでなかなか人と話せる状況でなかったという。
そして来週にまた手術を控えているという状況の中、
連絡をしてきたのだった。
自分の健康状態を考慮してのことだろう、
舅の残した本や原稿などが見つかり、渡したいとのこと。
子どもたちを馬車にのせたいとも申し出てくれた。

その日は珍しく、朝から青空が広がっていた。
明るい風景とはうって変わって、
珍しく冷たい風が吹いていて、実際の気温よりだいぶん寒く感じられる。
車で、アールコシュ村の大通りから
細道に入っていくと、行き止まりの小さな通りに出る。
そこが、舅の名をとってつけたシェレシュ・アンドラーシュ通りだ。
そこに住む兄も、同じ名前である。
ここでは、伝統的に長男に父親と同じ名前、
長女に母親と同じ名前を付けることが多く、
ご先祖をどれくらいさかのぼっても、シェレシュ・アンドラーシュだったに違いない。

アンドラーシュは、舅の本業だった民俗学には興味がなく、
その息子たちも同様のようだ。
そこで異母弟である旦那がそういった資料的なものをすべて相続していた。
異母姉のイルディコーは、ハンガリーに亡命するときに、
貴重なコレクションをすべて持ち出し、売ってしまったと聞いている。
今では音信不通のようだ。

久々に会う兄はすっかり痩せて、年をとったように見える。
茶色いニットセーターが大きく感じられる。
ついてすぐに納屋へ通してくれ、
羊やヤギ、ウサギや馬などが温かい息を吐いて、
動物特有の熱気でこもっていた。
家畜で生計を立てるほどの数でもない。
病気にも関わらず、これだけの家畜を世話しているとは、
よっぽど動物を愛しているのだろう。

中でも、2M以上もある巨大な躰をもつクリーム色の馬は、
彼の自慢でもあるようだった。
「名前は、シレトだ。
モルドヴァから連れてきたので、川の名前からとったんだよ。」
モルドヴァは、舅のフィールドで、
生前、足しげく収集のために通っていた。
そして、チャーンゴー人の集落のあいだを流れる川が、
彼らの方言でいう「愛」という美しい名をもつ川であった。

元々はオーストリア産の、運搬用の馬であるらしい。
筋肉質の体に、地面に届くほどの尻尾はストレートでプラチナ・ブロンドだ。
「冬なので、毛が生え変わるから」とご主人が丁寧に体をブラッシングしていた。

やがて馬に馬車を取り付け、
後ろの荷台には、椅子代わりに干し草の束を積んでいった。
さらに、納屋から巨大な羊の毛皮を取り出して、
寒くないようにとかけてくれた。
ずっしりと重い。
ふと兄は思いついたように、納屋へ戻ると
カウボーイ・ハットを4つ荷台に投げ込んだ。
何かの冗談だろうか、「寒くないように。」とは言うが、
つばの広がった帽子では、風よけにもならない。
こうして、馬車は私たち家族と兄をのせて、
隣村へと出発した。

せっかくなので帽子にカウボーイハットをかぶせて、その気分を味わう。
カタカタと心地よい音を立てて、
久々に乗る馬車は、なんとも爽快である。
上下、左右に揺さぶられるのにも、じきに慣れてくる。
普通なら坂道を上るときなど特に馬が可哀想になってくるのだが、
このどっしりとした頑丈な馬なら一頭でも頼もしい。


szeker (7)


まだ集落が見える前に、左手に見えてきたのは教会だった。


szeker (4)


生まれて初めて乗る馬車。
5歳の次男もしっかりつかまり、目を凝らして風景を眺めている。


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長女は旦那の膝に座り、
アンドラーシュに手綱を握らせてもらっていた。
思いのほか、風が冷たく、
何度となく、毛皮の布団を手繰り寄せてはみたが、
重くてなかなか動かせなかった。


szeker (12)


遠くから同じように馬車がやってくる。
ルーマニアの村では馬車を見ることはそう珍しくはないが、
兄の飼う馬はその種の馬でないことは、素人の私でも見分けがつく。
村人たちの、特にジプシーの男たちの羨望のまなざしを感じる。


szeker (11)


「ちょっと、ここで待っていてくれ。」と村のはずれで馬を止めた。
誰か知人を探しているらしく、
村人たちに尋ねてみたものの、留守のようだった。
近所からジプシーの少年たちがやってきて、
馬や馬車を珍しそうに見ながら、
私の足元にある巨大な毛皮を高価なおもちゃのように眺め、何かささやき合っている。


szeker (6)


この付近ではかなり大きいジプシー居住区があり、
私も昔ここに入ったことがあった。
まるでラビリンスに迷いこんだような、
狭い路地が張り巡らされていて、興味深いところだった。

やがて、森のはずれまでやってくると、ここでUターン。
太陽も徐々に高く上り、風景は明るいが、
それでも長時間、風にさらされて寒かった。
冬と春の入り混じった風景、
もうすぐトンネルを抜ける所なのに、
それが長く感じられるのだ。


szeker (1)


去年の春、外出禁止令が厳しくなった頃に、
何度も兄からの連絡があったのを思いだした。
「大丈夫か?」「元気かい?」としきりに尋ねるのに、
首をかしげて旦那に報告したものだった。
思えば、あの時期に自分の病気のことを知り、
気遣ってくれたのだろう。
30過ぎた息子二人は、子供が生まれず、
シェレシュの名を持つ遺伝子は、
恐らくうちの三人の子供たちだけになるだろう。
兄は家族のきずなを探しているのかもしれない。
彼が健康を取り戻し、
再び一緒に馬車に乗って出かける日がやってくることを願う。





comments(0)|trackback(0)|自然、動物|2021-03-14_22:12|page top

冬と春のあいだ

2021年が明けた。
じれったいほどに冬の到来が遅かったのに、
今ではなかなか去って行こうとしない。
まるで迷惑な客のようだ。

冬と春とが、寄せては返す波のようにやってくる。
もうこれで、最後の雪だろうと安心していると、
忘れたころにまた大地が白くなる。

可哀想なのは植物たちで、
春と思い、久々に空気を吸いに顔を出したと思ったら、
再び冷たい雪にすっぽりと隠れてしまう。

数日積もった雪が、太陽の光で溶けてゆく頃、
町はずれへと散策に出かけた。
なだらかな丘の斜面にはまだ雪が残っていたので、
念のためにと車のトランクに入れて置いたそりが、思いのほか役に立つようだ。

 ttvasz (5)


太陽の光で気温は上昇しているので、
帽子も手袋もいらない陽気。
それでも、大地はまだ冷たいままで、
雪や氷を溶かしきることができない。
長い斜面をそりで滑ると、氷がつるつると滑って、
何百メートルも遠くへと運んでくれる。


ttvasz (4)


 今年最後になるであろうそり遊びを存分に楽しんだ後は、
南向けの斜面へと向かった。
ここではほとんど、きれいに雪は洗い流されていて、
雪解けの水をたっぷりと含んだ草原が露わになっていた。
まるでその色といったら、
茶色い動物の毛並みのようで瑞々しく、美しい。
「洗い立ての髪を、櫛でといたようだろう。」と旦那も言った。

 ttvasz (6) 

昼間の陽気で気持ちよく、
どこまでも草原を歩いてゆきたい気分だった。
斜面を登ったところで、美しい木を見つけた。
木の根元に安楽椅子のように腰かけて、
目をつむっていると、心も体もほぐされていくようだ。
いつしか目に見えないストレスに絡み取られていたことに気が付く。
それは、四角い壁の中にいては発散されることはない。
大地の匂いをかぎ、
太陽の光をあびて、
外の空気を吸って呼吸をしなければならない。野生動物や植物のように。


ttvasz (3)


人間もやはり動物なのだ。本能が自然を欲している。
当たり前のことなのに、どうして忘れてしまうのだろう。
この植物たちのように、地に根を下ろして生きていきたい。


ttvasz (7)




家から徒歩10分でたどり着ける、大自然。
町のはずれの共同墓地の裏手に、美しい丘と谷間が広がっている。


ttavassz (5)


丘を一気に滑り降りて、谷間に出る。
ここに数多くの野草が生息している。


ttavassz (7)


ふたたび丘をのぼって、高台にやってきた。
ここは市民の隠れた散歩コースとなっていて、
犬の散歩をする人も見られる。


ttvasz (2)


ここは高原地方に属しているようで、
朝晩と昼間との気温の変化が大きい。
今の時期は20度くらい差がある日も少なくない。
遠くからねずみ色の雲がまるで夕立の積乱雲のように迫っていた。


ttavassz (1)


さらに茂みの生えた谷間を越えて登っていくと、
町の中でも一番高い地点にたどり着く。
太陽が日に日に長くなり、
確実に春が近づいているのが肌で感じられる。
来るべき季節に、この日常の鬱蒼を吹き飛ばしてほしい。


ttvasz (1)
comments(0)|trackback(0)|自然、動物|2021-03-11_21:24|page top

スターナのアーティスト

カロタセグ滞在の5日間の合間に、
主催者のアティラとともにフィールドへも出たことは楽しい経験だった。
ズィラフの博物館員であり、
本来は美術専門であるはずの彼が民俗学の方面でも仕事をしている。
特にトランシルヴァニアの陶器についての造詣が深い。
スターナの村へと出かけることになった。


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山を下り、さらに登って原っぱを越えて、スターナの村に到着した。
初日に待ち合わせをしたプロテスタント教会の横にある文化会館で、
面白い写真展があるという。
イギリスの写真家で、デニス・ガロウェイという人物が、
1920~30年代にかけて、カロタセグ地方を撮影して回った。
壁に掛けられたモノクロの写真には、
結婚式や葬式の習慣や、
美しい衣装に身を包んだ村人たちが記録されていた。


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アティラが言う。
「この村にひとり知り合いがいるから、そこを訪ねてみよう。」
小さな村のはずれにある一軒家。
その門には面白い標識がかかっていた。
「うちの犬は、時速50キロで走れる。」
普通なら、「犬、危険。」とか書いてあるものなのに、
ユーモアあふれる表現で、しかもちゃんとよそ者を威嚇している。

門をひらくと、さっそくたくさんの犬が柵の向こうがわで待ち構えていた。
しかし、どれもが親しみやすく、襲ってくる恐怖は感じられない。
庭は、どこにもガタクタのようなユニークな作品で埋め尽くされていた。


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白髪のご主人は、ピシュタ。
スターナで生まれのアーティストだ。
丸顔に青い瞳で、人懐っこいまなざしを注いでいる。
来るなり、すぐにパーリンカでもてなしが始まった。
同じ芸術家のアティラとは、親しい中であることがすぐにうかがえる。

「古い体制の時に、チャウセスクの絵を描かなければならなかったんだけれど、
体制が変わった後、どこからかその絵が出てきて、
誰が描いたんだってことになった。
俺は恥ずかしくて言えなかったよ。
何せ、何メートルもある大作だったんだ。」
そんな話をしながら、陽気に笑っている。


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主人のもてなしを受けて、部屋の中を見せてもらう。
「息子のためにタイルの壁を作ってやったんだ。」
それは見てすぐわかるように、彼がペイントしたタイルだった。
しかも、端には制作年とモノグラムが見られる。


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「これは、客が来た時に、絵をプレゼントしてあげると見せかけて・・・。」
ピシュタが絵を取ろうとすると、ただフレームだけが取れる仕掛けになっている。
絵は壁にそのまま描いてあるのだ。

電源のコネクターの上には、必ず鳥が描かれている。
生活すべてを、面白くし解釈してしまうのがピシュタの性癖らしい。


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主人の部屋は、カロタセグの陶器や織物で飾られていた。


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主人の部屋の秘密の小箱には、
母親から受け継いだ手仕事が収められていた。
中でもすぐに目を引いたのが、革製の小さな袋。
他のカロタセグの村でも見たことがあったが、たばこ入れとして使われていた。


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「さあ、カティ。これを広げてみなさい。」
私の名前も勝手につけられている。
黒いクロスステッチでできたベッドカバーは、葬式の祭壇を作るときに使われたもの。


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ブドウの房、バラの花、そして鳥が向かい合わせに刺繍されたのは、
産後の女性を見舞う時にお菓子を包むのに使われたロングクロス。


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「これが、僕の母親だよ。」
ピシュタが部屋の隅にかかっていた絵を見せてくれた。
裏には、デニス・ガロウェイと名前が刻んであった。
先ほど、村の中心で見たばかりの写真を撮った人物だ。
ピシュタの母親が若いころ、このイギリス人の芸術家に会い、
このように絵を贈られたのだった。
その息子が芸術を志すことになったのは、面白い因縁だ。
「実は、彼はスパイだったそうだよ。」とこっそりとささやいた。


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こちらも彼の写真に違いない。
少女たちが身を寄せ合うようにして刺繍をしている風景。
幼い少女を肩に抱く男性を差していった。
「これがおじさんだよ。戦争で帰らなぬ人となった。」
その横にいるのが、ピシュタの母親だ。


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ピシュタに礼を言って、家を出ようとすると、
また通り雨がやってきた。
再び、主人のベランダに戻って、酒盛り。
今度は、作りたての甘いサワーチェリーのリキュールを頂いた。


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雨上がりの村をほろ酔い気分で後にし、
私たちは家族や仲間たちの待つセントイムレイの家へと山道を越えていった。



comments(0)|trackback(0)|カロタセグ地方の村|2020-10-01_03:29|page top

「化石の丘」アーティストレジデンス(後)

翌朝は珍しく、日の出の頃に目が覚めた。
小鳥のさえずりが耳をつき、
深い緑の森が窓の外から目に飛び込んでくる。
朝日の中で屋敷の周りを散策してから、
一階のキッチンにくると、すでに男の子と男性がおしゃべりをしながら朝食をとっていた。
屋敷の主人であるジョルトおじさんと奥さんのチッラが、
キッチンで食事の準備をして、私たちがテーブルにつくという贅沢な日常がスタートした。

初日は朝食が済むと、すぐに遠足に出かけることになった。
細い山道から広々とした原っぱの中に出て、
そこでジョルトおじさんが話をしてくれた。
ここはコーシュ・カーロイが所有していた農場で、
たくさんの家畜を飼っていたいたという。
カロタセグに移り住んだコーシュは、
ハンガリーがトランシルヴァニアを喪失するという大きな転換期にあって、
カロタセグ共和国というユニークな構想を打ち立てた。
当時のカロタセグとは芸術家たちの聖地であり、
大きな国家に依存せずに生活をしていきたいという夢があったのだろう。

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芸術家たちと子供たち。
このキャンプの素晴らしいところは、
アーティストと子供たちが、お互いに邪魔をせず、
まるで大きな家族のように見事に調和したところだ。


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コーシュの農場を後にすると、今度は高い丘を登っていく。
昨日の教訓から長靴を借りたのだが、暑いし歩きにくい。

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甘い匂いが鼻をつく。
見ると、草原の中にピンク色の花が顔を出していた。
「酔っぱらいの花」と呼ばれるこの花は、
初夏のシンボルとしてここ一帯でだけ見られるものだ。


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やっとのことで丘の上に上りつくと、
そこはまるで一つの世界のようだった。
平べったい山の上からはカロタセグが四方見渡せる。
皆が長靴をぬぎ、はだしで原っぱの上を歩く。
丘の頂上をはだしで歩く、なんという解放感。
この2か月半の閉塞感の後で、とりわけ私たちに必要なものだ。


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子供たちが茂みで何やら見つけたようだ。

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何と大きなトカゲ!


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ジョルトおじさんが説明をする。
ここは、ハンガリーとトランシルヴァニアを結ぶ交通の要所で、
屋敷が建てられた100年前にも、
無人駅のスターナはブダペストからの特急が停車する場所だったそうだ。
遠くの雲行きが何やら怪しい。
ずいぶん長いことそうしていながら、誰も下に降りようと言い出す人がいなかった。


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ようやく、長靴を履いて丘を降りた時には、
もう雨がそこまで来ていた。
雨の中を丘をみなで駆け下りていく。
すると、3人子供が見当たらないという声が聞こえ、
探すやら、木の陰まで急ぐやらで大慌て。
子供たちは無事に見つかり、びしょ濡れになって屋敷まで急いだ。
やっとのことで到着したと思いきや、
先ほどの雨がやみ、うそのような快晴になった。



そもそも、このレジデンスは、
シラージ県の博物館員であるアティラが企画したもので、
招待された芸術家たちは博物館に作品を寄贈することになっている。
部外者の私としては、何か自分でできることはと考えた末、
カロタセグのブラウスを作ってはどうかと思っていた。
先ほどの雨で、屋外に置いていた資料の本はぐしょぬれ。
主催者アティラの娘さんヴィオラは、日本語に興味を持ち、
この春に、独学で日本語を勉強しはじめたそうだ。
大きな瞳をきらきらさせて、質問をしてくる子どもを前に、
自分の創作活動を捨てて、日本語を教えることに決めた。

長男ベンツェとヴィオラを前に、日本語の基礎を
なるべくコミュニケーションを意識しながら教えていく。
父親も祖父も画家、その一方で母親も祖父も音楽家という素晴らしい素質をもつ子供たち。
日本のわらべ歌を教えると、
すぐに輪唱で美しいハーモニーが出来上がる。
時に娘も加わり、
時にほかの子供たちも混ざって
日本語で色オニをしたりと笑い、楽しみながら日本語に親しんだ。
友人レベンテの子供ふたりは、父親に習ってすぐに絵を描きはじめた。


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美しい緑の森の中で、
それぞれが対象物を見出し、創作活動に入る。


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魔法のように、画材道具が飛び出す小箱。
さらに色を混ぜると、その可能性は無限大になる。


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中高一貫の美術学校に通っていた旦那が、20年ぶりに油絵を描いた。
「カラスの城」を描いたのだが、
帰る途中で草で滑って、キャンバスを落としてしまったようだ。
こちらはお世話になったジョルトおじさんに寄贈した。


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沈む前のその日最後の光を探り当て、
白いキャンバスに刻み込むアーティスト。


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レジデンスには滞在しているアーティストのほかに、お客様も訪れた。
主催者の奥さまエニクーの妹のアンナもしばしの間、
私たちと行動を共にした。
3人の子供たちにとってこのおばは母親のような存在で、
瞳を輝かせてキャンプの出来事を語り聞かせていた。
エニクーは、クルージの大学でピアノを学び、
その後、外国でクルーズ船などで仕事をしたり、
故郷の町で音楽教師をしたりしていた。
彼女に転機が訪れたのは、3年前。
外国から帰って、すぐに故郷の町へも行きたくない。
ブダペストの友人宅に居候しながら暮らしているうちに
今の職場である、学校の音楽教師の職を探し、
コーラスのグループで結婚相手も見つけて、今もブダペストで暮らしている。

「私たちの結婚式には、コーラスの友達など150人が集まってくれた。
皆が花嫁の私のために、野の花で冠を作ってくれたの。
白いレースフラワーをいっぱいにつけてね。」

その日は、ゾーヨムの7歳の誕生日だった。
近くの原っぱで皆で野の花をつみ、アンナが丁寧に花の冠を紡いでいく。


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「この春の間は、ホームシックがひどくて、
去年の大晦日に帰って以来、イースターにも帰ることができなかったから。
ブダペストの生活で一番恋しくなるのは、この手つかずの原っぱ。」

「先週は、主人と近くの山へ遠足をしていて、
無言で歩いていた時に、ふとこう言ったの。
『ハンガリーで、どうしてトランシルヴァ二アを失って悔しい思いをする人が多いのか、
やっと今わかったよ。』」

もうじきハンガリーへ帰っていくアンナは、
その風景を目に焼き付けるように花を摘み、やがて見事な冠を作り上げた。
晩御飯の時に、誕生日を祝う民謡をみなで歌い、
7歳になったばかりの少年の頭に載せた。


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誕生日の夕食がすむと、
その夜は、ハレー彗星が地球に近づく日だというので、
皆で再び化石の丘に登ることになった。
手に懐中電灯を持ち、上着を着て、
真っ暗な木のトンネルをくぐり、星空の待つ野原へ。
子どもも大人もいっしょに15人くらいのグループが、夜道をそぞろ歩く。
まるで子供に戻ったかのように怖いような、胸がわくわくとするような心地。

丘を登りきると、満点の星空が照らした。
「ハレー彗星はどこ?」と皆が探していると、
望遠鏡を持ってきたダニエルが、「ほらあそこだよ。」と指をさす。
北の空の低いところに、肉眼ではわからないほどうっすらと
光の膜が揺れている。

双眼鏡をもって眺める人、
夏の星座を示して説明する人、
彗星の写真を撮る人・・。
暗闇の中で娘を探していると、
向こうの方に星空を見て、仰向けに寝そべっている3人の姿。
まるで星の音色のようなハーモニーが聞こえてくる。
高音のヴィオラと低音のベンツェの歌声が、
イスラエルの民謡シャロームを奏でていた。

「どこかで またいつか 逢えるさ
また逢おう また逢おう どこかで

きれいな 思い出 抱きしめ
また逢おう また逢おう どこかで

緑の星 ふたつ 寄りそう
離れても 離れても 寄りそう

どこかで またいつか 逢えるさ
泣かないで 泣かないで さようなら」



やがて最後の晩がやってきた。
いっしょに映画を見よう、もう一度丘に登ろうと
いろいろ計画をしながら、結局は翌日の出発の準備で忙しかった。
日が暮れる前に、子供たちを散歩に連れ出した。


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手ごろな木を見つけると、
娘が登りはじめ、「僕も私も」と子供たちが木登りをする。
7歳から16歳まで、年も様々な子供が一緒に過ごす。
近所の子供たち、親戚の子供たちが、
当たり前のように集い、遊び、時には喧嘩もして、育つ。
昔はこうだったのかもしれない。


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太陽の日差しとともに、雨粒が降って来た。
それでも、私たちの上に雲はない。


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ふと向こうを見ると、大きな虹がかかっていた。
どこまでも、虹に向かって原っぱを進んでいきたい衝動に駆られる。


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アティラの三人の子供たちは、明日からズィラフに帰っていく。
私たちは、残りの5日をトロツコーで過ごすため、移動だ。
長男もズィラフに招待され、
子どもたちと一緒に5日を過ごさせてもらったあと、私たちと合流して帰ることになった。


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5日間を一緒に過ごした私たちは、大きな家族のようだった。
どうしてここをコーシュが農場に選んだのか分かった。
100年前に、コーシュもまた友人たちや家族とともに、
あの化石の丘を登ったに違いない。


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comments(2)|trackback(0)|セーケイ地方の村|2020-09-06_02:58|page top

「化石の丘」アーティストレジデンス(前)

7月の半ばころ、友人と話していた時だった。
「カロタセグで5日間、トロツコーで5日間を過ごしたくない?
住むところも、食事も全部ついているんだ。」
目を丸くして、旦那と顔を見合わせていた。
夏休みの予定など空白だったから、それは思ってもみない提案だった。

画家のレベンテが、毎年夏にカロタセグのアーティスト・レジデンスに参加することは知っていた。
実は、彼もその主催者のひとりであり、
今年はコロナ流行を受けてハンガリーなどからの参加者のキャンセルが相次いで、
主催者も困っているとのことだった。
誰でもいいというわけではないだろうが、
こうして声をかけてもらったのは光栄なことだ。
それも、家族全員で参加できるとのことで、
カロタセグやトロツコーはどちらも私たちのフィールドなので、
私たちにとってはまさに夢のような話だった。

その二日後、私たちは荷物をまとめて、
カロタセグ地方のスターナへ向かった。
気乗りしない長男をやっとのことで準備に急がせたり、
いつものように旦那が気まぐれを起こしたりと、
出発の直前まで、いざこざがあったことは言うまでもない。

スターナのプロテスタント教会前に車を止めて、
他の参加者の到着を待つ。
4時の待ち合わせのはずが5時になり、
6時頃になってようやく人が集まってきた。
「ほら、あの人が主催者のアティラだよ。」と友人のレベンテが示すと、
車から3人の子供たちが降りてきた。
長男と同じ年ごろの少年がいるのを見て、心の中でひそかに喜んだ。
主催者に自己紹介をすると、なんと2年前にシク村の我が家に
レジデンスの参加者たちとともに遊びに来てくれた一人だったと気が付く。

目指す宿は、スターナの村からは遠い。
電車駅のすぐそばで、私たちも車のないころによく通った道だ。
雨でぬかるむ道を車で進むことはできないから、
村人に頼んでトラクターの後ろに荷台をつけて、荷物を運ぶことになった。
そして、荷物の見張りを二人の少年に任せて、
他の参加者は遠足気分で徒歩で向かうことになる。


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けたたましいトラクターの機械音とともに、
たくさんの荷物とまだ知り合って間もない少年二人が出発していった。


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村にある水飲み場で子供たちが遊びはじめたので、水のみ休憩。
昔は洗濯をするおばあさんの姿を見た場所だ。


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小さな村を過ぎると、今度は原っぱの丘が待っていた。
そこからさらに、森の中へ。


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森の山道はどろどろにぬかるみ、
長靴を履いてきた人は正解だ。
靴の底には厚い泥が張り付き、歩きにくいことこの上ない。
急に視界が晴れて、目の前に鉄道線路が現れる。

このスターナ駅は今から100年ほど前に、別荘地だったところで、
当時はハンガリーだったトランシルヴァニアの、著名人が家を建てていた。
中でも、トランシルヴァニアのハンガリー人にとって
精神的な柱であったのが建築家コーシュ・カーロイという人物。
トランシルヴァニア主義という、民族を超えた文化的な協力、統一を目指して、
第1次大戦後の新しい思想を担った。
コーシュが自分の住いにしたのが、この「カラスの城」と呼ばれる家だ。


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その近くにあるのが、今夜の住いであるセントイムレイの家。
コーシュが友人の作家、セントイムレイ・イェヌーのために設計した屋敷だ。
トランシルヴァニアの民俗建築の基礎は、中世の建築にあるという
彼の言葉通りに、石の基礎と木製の屋根や壁が美しく調和している。
大きな屋敷の前では、主人の夫妻が出迎えてくれた。
気品のある初老の男性サボー・ジョルト氏は、セントイムレイ・イェヌーの孫に当たる人物。

民俗学者だった、旦那の父シェレシュ・アンドラーシュとも知り合いで、
舅の本「バルツァシャーグの民俗詩と習慣」も
彼の持つ出版社クリテリオン社から出たものだった。
氏の母親セントイムレイ・ユディットは民俗学者で、
特にトランシルヴァニアのハンガリー人の刺繍の研究で知られ、
生前知り合いになりたかった人物の一人だった。


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「シェレシュ一家は二階の奥の、大きな部屋がいい。」とジョルトおじさんに言われ、
私たちは二階の部屋についた。
実は私たちは、一度ここに泊まったことがある。
3年前のイースターのツアーで、この住まいにどうしても心惹かれて、
不便な場所とは知らずに予約をしたのだった。
驚くことに私たちの今回の部屋もまた、その3年前に泊まったのと同じ部屋だった。
家具まで全部、コーシュが設計したというのだから、こだわり方が違う。
トランシルヴァニアに残る木の墓標をデザインしたテーブルや椅子にベッド。
そして、セントイムレイ・ユディットの刺繍作品や、
カロタセグのテーブルクロスがかかる調度品を眺めているだけで幸せな気分になる。


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泥だらけのズボンや服を着替えて、夕食の後、眠りについた。
こうして、美しい住まいでの5日間がはじまった。


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comments(0)|trackback(0)|カロタセグ地方の村|2020-09-03_18:17|page top

ピロシュカおばあちゃんと手仕事

ゆったりとした春の後で、 
夏はあわただしく私たちの周りを駆け抜けていこうとしている。
何か予定を立てていたわけでもないのに、 
次々いろいろなことが舞い込んできて、 気が付けばもう8月も半ば。
久々に、アーラパタク村のピロシュカおばあさんのところへ立ち寄った。 
しばらく音沙汰がないと、おばあさんが心配をする。
 一人暮らしのおばあさんは、体の自由が利かない分、 
頭だけはいろいろと思いめぐらすのだろう。 

さきほど市場で買ったばかりの野菜や果物をもって 門の前に車を止めると、 
おばあさんがお隣さんの家からゆっくりとした足取りでこちらに向かってきた。 
「つえをなくしてね。 もしかしたら、隣に置いてきたのじゃないかと思ったんだけれど。
 やっぱり、ここにあった。」
 門に立てかけた箒のすぐ後ろに、木の棒が置いてあった。 

「今は夏だから、外で寝るのよ。」 
そこは、おばあさんのベッドがやっと入るくらいの小さな小屋だった。 
薪で煮炊きをするから、夏の間は寝室が過ごしやすいようにと、 
住まいを分けるのが習慣だ。 

村で病気にかかった人の話、通りの下水工事の話、
庭の野菜の、毎週日曜日の教会の話など、おばあさんの近況に耳を傾けていると、 
ふと何かを思い出したようで、食糧庫の中で探し物をしている。 
「あの布がここにあったと思ったんだけれど。」
 やっと見つけた袋から、布と赤い巻き糸が出てきた。

「もう、縫うことはできないわ。
だから、返そうと思って。」
以前、おばあさんに刺繍を縫ってもらおうと思って預けた
クロスステッチ布と糸だった。
不意の言葉に、さみしい思いでその包みを手にしていた。
すると思い返したように、小さな布切れだけは取って、
「これだけはもらっておくわ。しおりなら作れるかもしれないからね。」

そういえば、何年か前にもそういうことがあった。
もう縫えない。
細かい布の目を数える編みクロスステッチは、
手先の器用さはもちろん、集中力を要するものだ。
自分の力の極限を感じながら、
それでも、膨大な時間をどう過ごしていいかわからず、
やっぱり手にとり、刺繍で時間を過ごしてきたのだろう。

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86歳のピロシュカおばあちゃんのしわしわの手が、
ベッドの上の枕の下を探り、
ふたつの靴下を見つけ出した。
「これは、あなたとお嬢さんのよ。」
毛糸で編んだ靴下は、しっかりとした厚みとぬくもりが感じられた。

「昔着ていたセーターをほどいて、編むのよ。
私はもう昔の服が着れなくなったから。」
この冬はおばあちゃんの靴下のおかげで足は寒くないだろう。
「おばあさん、秋になったら
私も編み棒をもってくるから、編み物を教えてくれませんか。」
私はとっさにそう口に出していた。
「ええ、もちろんよ。刺繍を教えたみたいにね。」

こうして、おばあさんと私をつなぐものは刺繍だけでなく、
編み物も含めた手仕事となった。
いつか一緒に編み棒の針を動かしながら、
おしゃべりをしよう。
そして、讃美歌の歌を歌おう。
この冬にそうしたように。


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comments(1)|trackback(0)|セーケイ地方の村|2020-08-15_02:49|page top

コロナ禍のトランシルヴァニア

3月9日に非常事態宣言が出て以来、
私たちの日常は大きく変わった。
子供たちは朝学校や幼稚園に行く代わりに、
夏休みのように一日中家にいる。
オンライン授業というとってつけたような手段にも慣れず、
あたふたと戸惑う学校側の様子が手に取るようにわかるようだった。
中途半端なことはせずに、
この状態が続くうちは仕事をきっぱりと忘れようと思った。

思えば、私たちの日常とは
社会が押し付ける価値観に則ったものであるといっていい。
学校教育がはじまると、朝から晩まで子供たちは学校で過ごす。
幼稚園では、学校への慣らしとして、
朝ごはん前に幼稚園へ連れていく。
朝ごはん、昼ごはん、お昼寝、おやつを食べたころに親が迎えに行く。
共働きの家庭にとっては大助かりなのだが、
要は、平日は教育機関に子供を任せきりなのである。

しかし、最終的に子供を育てるのは親であることに変わりない。
私たち親は、朝と夕方からの限られた時間の中で、
子供たちをしつけ、育て、その行動に責任をもたなければならないのだ。

自宅で過ごそう、ステイホームを合言葉に、
2部屋のアパートで5人家族がひしめく我が家で、
自宅学習、自宅遊びが始まったのだが・・・。
高校1年、小学1年、幼稚園年中という年の離れた兄弟が
あっちで遊び、こっちで勉強というのがなかなかうまくいかない。
その中でも家事はノンストップだ。
春から初夏へと流れる、一年で最も美しい季節を
窓の外からだけ感じるのも忍びない。
思春期の長男は、ともすると朝から晩まで
パソコン、タブレット、携帯という三種の神器を振りかざし、
家から出ようともしない。

そんな時、近所のスーパーで知人イロナに出くわした。
入場制限のある店内。
お互いに遠く離れ、マスク姿で品を選ぶそぶりで会話した。
買い物を終えて、家に帰ると
思い切って彼女を電話で呼び出した。
すると、彼女も二人の子供を家で持て余しているという。
森を一緒に散歩していた知人家族とも連絡が途絶たという。
彼女は遠く離れた村で牧師をしているが、
子供たちの教育のために生まれ育った町を選んだ。
彼女の夫ははルーマニア人で、普段はブカレストの
生物学研究所で働いている。
その夫がウィルスの研究をしていて、
まさにコロナウィルスの試験をする担当だという。

彼女自身は、子供たちの精神衛生上、
自宅謹慎はよくないと考えているようで、
その日から、長男とアーロンが自転車で出かけたり(スポーツ目的の運動は許されている)、
イロナの家に遊びに行ったり、
炭酸水通りの我が家の庭に遊びに来たりという交流が始まった。

2か月超におよぶ自宅謹慎の中で、
庭つきの家があるというのは何ものにもまさる宝だ。
炭酸水通りの家へ毎日のように通い、
いつの間にかそこで泊まり、過ごす日が長くなった。
今年初めて、心から畑をしたいと欲するようになった。
先の不安な世の中で、食べ物を自分たちの手で作ることができることは
大きな安心感を与えてくれるからだ。
3月から4月にかけて、しっとりと水分を含む黒い土、
中で眠っていた小さな虫たちが目を覚ますのを見ているだけで、
何とも言えぬ満ち足りた思いだった。
飛行機ひとつ飛ばない空はいつもより青く澄んでいて、
排気ガスが少なくなった町の空気も目に見えてきれいになった。

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警察や軍隊が目を光らせる中、
隠れて悪いことをする子供のように、森のはずれまで自転車で出かけて行った。
炭酸水通りは、もう町のはずれの自転車道路に続いている。
森まで1キロ半といったところだろうか。
後ろに次男を乗せ、自転車を乗り始めた長女をしたがって、
炭酸水通りの小さな小川を眺め、
自転車道路に出ると、原っぱで放牧している馬の群れに挨拶をする。
さらに先に進むと、そこはもう森のはずれ。
くぼみに自転車を隠してから、
太陽の降り注ぐ森で目覚めたばかりの真っ白な「そよ風のバラ」や
輝くような黄色の「カエルの花」、細く優雅なカタクリの花や、
まるで森の精そのものように神秘的なクリスマスローズ。
そうした花を愛で、小鳥の歌声に耳を傾けているだけで、
緊張で固まった心が浄化されていく。

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4月の終わりに誕生日を迎えた長男、
イロナの家族を呼んで誕生会をひらいたこともあった。
森のはずれにあるドボイ村の家に出かけ、
静かな環境に身を置いたこともあった。

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驚くことには、社会の影響を強く受ける町では
精神的に圧迫感を常に感じていたのだが、
村の生活は以前とほとんど変わらないということだ。
社会がどのような混乱に見舞われても、
村では何もかもがマイペースにただ流れていく。
特に自宅学習をする友人宅では何もかも変わらずに、
(友人が訪ねてこないことを除いては)
いつもと同じ日常が続いているとのことだった。

今日、長い非常事態宣言が解けた。
私たちの生活に精神に大きな影を落としながら、
それでも、この状況で多くのことを学んだ。
ルーマニアでは学校はこのまま閉鎖され、そのまま夏休みに入る。
私たちは、これまでの生活をどのように変えようか、
何を取り、何を捨てるかという選択の自由があるならば、
今こそ真剣に、深く考えなければならない。




















comments(0)|trackback(0)|ルーマニアの育児|2020-05-15_08:29|page top

ザ・龍之介

7BookCoverChallenge  第7日目
ザ・龍之介 第三書館
芥川 龍之介 1892年〈明治25年〉- 1927年

いよいよ最終日、ふたつの本が候補にあって、どちらにしようか迷い続けていた。
趣味のための本を選ぶことができなかった私を変えてくれた本。
ハンガリーで留学時代に、たまたま日本の本と思って手に取り、
何気なく手に取り買ったのが、20世紀初めの古本。(この本が見つかりませんでした)
ハンガリー語のタイトルは「日本のデカメロン」。
名前はえっ?という感じだが、官能性を感じさせる珠玉の小説が集められている。
19世紀末のセセッション(アールヌーヴォー)に魅了され、研究テーマにも選んだ学生時代、
その薫り高い美意識が同時代の日本の文学界にも息づいているのを感じた。
日本の文学黄金期、明治末、大正時代の作家のスター作家の作品が並んでいたように記憶している。(谷崎潤一郎、樋口一葉、川端康成・・­)
そして、それぞれの作品の前に作者の紹介もしてあるところが丁寧だ。
ハンガリー語の訳も素晴らしく、のちに日本語で親しんだ内容とまったく違和感がなかった。
ハンガリー語で唯一完読した文学書が、日本文学だった。
中でも、芥川龍之介の袈裟(けっさ)と盛遠(もりとお)の独特の緊張感、
刃のような言葉の切れ味にぞくぞくとした。

日本に帰国して、BOOKOFFでわずか100円で買い求めたのが、この芥川集だ。
まるで蚤のように小さな文字で、安いわら半紙に印刷されているが、
全作品が収録されているという。
ページをペラペラとめくり、気になったところを拾い読みするという手法で、
芥川の作品に親しんだ。
短い文章の中でまるで写真のように、人生の断面を切り取る美しさ、その無駄ひとつない文章。
西洋文学と日本文学、漢文学という3つの要素を吸収した芥川は、
大正時代という文化的精神的にひとつの黄金期を迎えた時代に
生まれるべくして生まれた才能ではないだろうか。
芥川は、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』などの説話文学に着想を得た作品を数多く残していて、前回の小泉八雲の作品にも通じる、怪異的なモチーフを見事に作品の中に生かしている。
また、キリシタン文学を題材にしたものも多く、日本における異文化を存分に味わうことができる。
芥川の晩年は不幸にも神経を病んで、自死を選ぶことになるのだが、
遺稿のひとつ、「人と死と」という作品の中で、このような問答がある。

作者 あなたは、いつでも、獨りで、さみしくはありませんか。
月 ちつとも、さみしくはないよ。
作者 さうですか。私は、友だちが大ぜいゐてもさみしくつて、仕方がありません。
月 友だちが澤山ゐるから、さみしいんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・
作者 あなたは、いつでも、空ばかり歩いてゐて、さみしくはありませんか。
月 ちつとも、さみしくはないよ。
作者 さうですか。私は、仕事が澤山あつてもさみしくつて、仕方がありません。
月 仕事が澤山あるから、さみしいんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・
作者 あなたはようござんすね。
月 何故だい。
作者 いつでもさうしてゐるでしせう。銀貨のやうに白くなつたり、縫針のやうに細くなつたりしてもやつぱり、ちやんとさうしてゐるでせう。所が人間はさうは行きませんよ。
・・・・・・・・・・・・・・・
作者 私は、又、死ぬ事を考へると、何時でもきつと、さみしくなつてしまひますよ。
月 さうかい、私は死ねない事を考へたら、急にさみしくなつてしまつたよ。

わずか36歳で人生を閉じた芥川が、3人の息子に「芸術家にはなるな」との遺言を残したらしい。
しかし、長男は俳優、次男は詩人、三男は作曲家(芥川 也寸志)という風に、
芸術家の遺伝子はしっかりと受け継がれていったようだ。
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