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トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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出発の日のトラブル

この長い冬のトンネルをくぐりぬけた後に
何か新しいことをはじめたいとき、
私の心は強く旅を欲する。
モノトーンな日常を大きく変えて、
心にも体にも活力をもたらしたい。
これまでにも、何度かそれを試みてきた。
ヨーロッパ内陸部の北国とは遠くかけ離れた、
どこか暖かい地中海の島へ
シーズンオフのこの時期に行くことにしていた。

去年は家族の都合で行くことができなかった。
次男の検査を、1月から4月の間ずっと待ち続けなければならなかった。
本当は去年のこの暗闇の時期にこそ、
旅が必要だったのだが。

こうして先延ばしになっていた旅を、
経済的に苦心しながらも計画した。
前日になるまでストライキを起こしていた旦那とのいざこざもあり、
それでもようやく出発の朝を迎えることができた。

前日までに荷造りしておき、
目覚まし時計より早く目覚めて、
移動の日の朝食、昼食を準備してタッパーに詰め、
台所を片付けて、
子供たちを起こして、服を着替えさせ、
時折、気になったことをPCで調べたりしながら、
私たちは午前9時前には車に乗り込んだ。

車に乗り込むとほっとして、
興奮のせいか、いつもより多弁になる。
カルパチア山脈を越えて、山間の美しい保養地を横目で見ながら、
山を下りて行ったところで、ものすごい渋滞であることに気が付いた。
幸いにも上がり方面ではなく、下り方面であった。
そういえば、その日から3日間の連休が明けたので、
ブカレストに住む人たちが休暇を過ごすために山間へ来るからだと旦那が言った。

何キロと途絶えることのなく続く車の列を見ながら、
驚愕し、憐れむ思いでこの都会の人々のことを考えていると、
ふと自分たちがこの渋滞をもし引き返すことになったらという疑問がわいて出た。
そうなると不安が止まらなくなり、
出発前に気がかりだった子供たちの出生書のことを旦那に尋ねてみた。
「日本のパスポート、持ってきただろう?」
予約の時にも、旦那と話しあったところ、
日本のパスポートだと時間がかかるから、
ヨーロッパの証明書だけで出国するのがいいという結論になった。
子供たちの持つ唯一の「出生証明書」で登録し、それをもってきている。
日本のパスポートの名前と、予約した名前が一致しないから
パスポートは持っても意味ないと思って、置いてきた。

何年か前に旅した時はどうだっただろうか。
遠い昔のことのようで、すっかり忘れている。
気になってたまらず、ハンガリーへ行き来している親しい友人たちに尋ねてみた。
どちらの子供も、ハンガリーから発行された身分証明書を持っているという。
「ちなみに出生証明書は?」と尋ねると、
「それでは国境を超えるのは無理だと思うわ。」との返事。

ここでさっと凍り付き、
ここまでの道のりを引き返すべきかと旦那と話しあった。
すでに3分の1の道のりを越えていて、
あと1時間ほどで、チェックインの時間がはじまる時間になっていた。
入国管理局に電話をして、
書類が不備であるかどうか確かめてから、
最後の手段で友人のボティを頼ることになった。

ボティにしたお願いというのは、
まず姑宅へ行ってもらい、我が家の鍵を受け取ること、
その足で我が家へ行き、自宅の奥底の隠し場所から
パスポートの入った入れ物を探してもらうこと。
最後に、その入れ物をもってこちらへ向かってもらうこと。

はじめは私たちも引き返し、
道中で受け取ることにしていた。
しかし、あの渋滞を見て、
さらに空港へと向かう道のりを考えると、
残り時間が少ないという結論にたどり着いた。

混乱した頭を整理しながら、
ボティに我が家の書類の場所、鍵の場所を教えなければならない。
私たちはブカレストの空港へ向かいながら、
ボティが姑宅で鍵を受け取り、
その足で我が家に入って、難問である
箱と鍵のありかを探り当てるのを
電話を通じて祈るような思いで見守っていた。

私の頭は最悪の事態まで考えておかなければならなかった。
もしボティが間に合わなかった場合、
先にパスポートなしで行ける旦那と長男に行ってもらい、
次のフライトで私が下二人を連れて現地で落ち合おうということになった。
時間を節約するため、私以外の家族は
先にセキュリティーチェックを済ませて、
パスポートコントロールの前で待っていてもらうことになった。

そして、私一人だけが
出発ロビーの掲示板の前に立っていた。
搭乗時間まで優に1時間半もある。
荷物に入りきらなかった、チャイルドシートを抱きかかえ、
時刻表を食い入るように見ながら、
時折、セキュリティーチェックの列が気になりうろうろすることもあった。

GPSによると、午後1時前後には到着見込みとある。
飛行機の出発は1時50分、搭乗開始時間は20分とあった。
そして観察していると、
航空会社によって搭乗の締め切り時間が違うのが面白い。
私たちの乗る格安航空会社WIZZAIRは、
出発時間の10分前までラストコールがかかっていることに安堵した。
計算をすると、出発30分前の1時20分ごろにセキュリティーチェックを終わらせれば
間に合うということになる。

真剣な表情でチャイルドシートを抱え立ち尽くす私のほうに、
レポーターの女性がやってきた。
ルーマニア語で何やら話しているのは、
ちょうど最新のニュースになっているコロナウィルスについてどう思うか、
旅行を心配しているか類の質問だった。
おおよその意味は分かるが、あいにくルーマニア語は話せない。
「ルーマニア語はダメなんですけれど・・。」という私に、
「英語でもいいんですけれど。」と離れないリポーター。
一刻の予断も許されないこの状況で、
そんな社会問題は考えも及ばなかった。
ごめんなさいと謝ると、彼らは立ち去った。

焦る私の心とは裏腹に、1時に向けて時計の針が近づいていく。
たまりかねてボティを呼ぶと、
あと10分ほどで空港に着くという返事。
空港の外で黒いホンダを探しているのだが、
それらしい車は一向に現れない。
もう一度呼び出すと、
ボティが焦った様子で、空港へ行く途中の曲がり角を間違えた様子だった。
誰かに道を聞くのが聞こえてくる。

あと少しで1時になるという時になって、
やっとボティの車が到着した。
チャイルドシートを助手席に放り込み、
金庫からパスポートを出して受け取ると、
心からお礼を述べて、ガソリン代だけ手渡した。
「残りは、帰ってからね。お礼をさせて。」とだけ言うと、搭乗口向かって駆け出した。

このように、波乱に満ちた旅の幕開けとなった。
汗だくになり、心身ともに疲労して
空を飛んでいると、改めて友人のありがたみに感謝した。
普通ならあり得ないようなことでも、
心置きなく信頼してお願いできるブラーガ一家。

曇り空の上に、夕日を浴びて浮かび上がるエトナ山。
私たちは、2時間のフライトでカタ二アに降り立った。











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comments(0)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2020-02-13_23:00|page top

モルドヴァの誕生日

10月の終わり、ある昼下がりに電話が鳴った。
1年ぶりに聴く声は、モルドヴァのチャーンゴー人の友人メリツァだった。
「11月24日に私の誕生日をひらくの。
ハンガリー人の舞踊ダンサーやインドから楽団(Dil Mastana)もやってきて、
盛大なパーティーになるから、家族も誘ってどうぞきてくださいね。」
懐かしい声と誘いを喜びとともに聞いていた。
しかし、あいにく11月の終わりは日本への帰国している時期だった。

連絡したいと思いながら、できなかった相手だった。
息子が病気になり、年末にもイースターの時期にも
訪ねたいと思いながら、遠出をすることができなかった。
1年半も会っていないのに誕生日に誘いを受ける、
以心伝心のような不思議な体験に胸が躍った。
彼女の誕生日の前に、思い切ってモルドヴァへ訪ねる計画を立てた。

モルドヴァのバカウ県は、
山を隔てただけで私の住むコヴァスナ県とは実は隣にある。
それなのに、モルドヴァと聞いて、
どこか世界の果てのような遠いイメージを覚えるのはどうしてだろう。
トランシルヴァニアに住む者にとって、精神的な遠さがあるに違いない。
100年前までは、確かによその国であったのだから。

しかし、モルドヴァのチャーンゴー人は
住み慣れたトランシルヴァニアを捨てて、山を越えて新境地へと向かった。
カトリック教と母国語ハンガリー語は捨てられずに、
いかに弾圧を受けようともずっと彼らの生活に寄り添ってきた。

カルパチアを越えて、山を下ると
いつも話題になるのが、コヴァスナ県と同じ地名が
モルドヴァの山向こうにいくつも存在する不思議だ。
おそらく、同じ人々が何らかの理由で移住していったからなのだろう。

タトロシュとスィレト(チャーンゴー人の方言で「愛」を意味する)と呼ばれる川の間に、
いくつものチャーンゴーの村が存在する。
2000年の1月に私が友人の写真家とともに
クレージェから徒歩で森を越えてたどり着いたレケチンは、
「神様の背の向こう」というハンガリー語の表現にまさにぴったりの
遠い遠いかなたの世界であった。
日暮れ時に、村の入り口にある産婆さんの家を訪ねて、
薄暗い小さな部屋にある機織り機と部屋中に飾られた色とりどりの織物。
モルドヴァの旅の中でも、それが最も印象に残る場所だった。
そして18年後、再びレケチンの村にやってきた。
今度は、合計で4度目の旅である。

村の入り口で電話をかけると、
「三つの像のところで、車を止めなさい。」とメリツァ。
村に入ると、あちらこちらでキリストの像が立っていた。
そして、三つの屋根つきの建物を遠くから見た時、記憶がよみがえった。

csango (9)

車を止めると、マールトンおじさんが迎えに来てくれた。
2人の子供を伴って、持ち寄った食べ物や贈り物を持って、
大きな石がごろごろと残る坂道を登っていく。
坂の中途に、メリツァが妹さんとふたりで暮らす家があった。

csango (5)

あたたかな太陽の光が差し込む室内は、
紫色で彩られ、色の洪水のような織物が主人とともに迎えてくれた。
「準備をして、待っていたのよ。」とメリツァ。
カトリンツァと呼ばれる巻きスカートに、花柄のスカーフを巻いている。

csango (2)

家の中、絨毯として床に敷いている織物の
何と色の鮮やかなこと。
モルドヴァのくったくのなく、陽気な人々の心をそのまま織ったかのようだ。

csango (4)

自家製のワインで乾杯をして、
モルドヴァ名物のジャガイモと羊のチーズ入りのパンを頂き、
ロールキャベツや鳥のスープ、ケーキなど、
次々とご馳走が広げられた。

私たちからのプレゼントは、
亡き舅が生前出版した、モルドヴァの民謡を集めた本だった。
同じ村の歌はあるかとリストを見ていると、
メリツァの名前が見つかった。
記録した年は、まだ彼女が23歳の頃だった。
今から30年以上前に、舅はこの家を訪ねてメリツァに会っている。
同じ歌を歌ってもらうようにお願いすると、
ハスキーな美しい声が美しい民謡を奏でた。

csango (3)

メリツァは私と同じ年の妹とふたり、
畑仕事や家畜をこなしながら、機織りで生計を立てている。
この夏には、20着ほどチャーンゴーの衣装を作った。
さらにチークセレダの町でたびたび民謡やダンスも教えているという。

csango (6)

坂道を下り、マールトンおじさんの家に向かう。
通りの風景ひとつにしても、レケチンの村は昔のルーマニアを思い出させる。

csango (8)

マールトンおじさん宅でも、ワイン片手におしゃべりがはじまった。
メリツァが、この夏に起こった信じられない出来事を告げた。
「両親の死後も、ずっと行方の知れなかった兄を探し出して、
故郷に帰るように呼んだら、いきなり私たちをつかみ出して追い出そうとしたのよ。」
警察を呼ぼうとしても繋がらない。
親が遺した土地を相続しようとしたら、
実は祖父母の名前のままだったというのも、ルーマニアではよくあることだ。
メリツァはトランシルヴァニアの親しい友人に相談したら、
何人もが救いの手を差し伸べてくれた。
誰もが自分の敷地内に家を建てたらいいと言った。
最後に、彼女は思い切った行動をとる。
ルーマニア正教の神父に黒魔術を施すように相談したというのだ。
この話を、遠くに住む兄に告げた途端、騒ぎが収まったという。
警察にも、弁護士にも解決できない問題を、
こういう古い習慣がカタをつけたという事実に目を見張った。

マールトンおじさんの名付け親の家を訪ね、
行く先々で、リンゴやブドウ、ワイン、ちいさな織物、お菓子などをもらい、
すでに薄暗くなった村をあとにしようとしていた。

csango (11)

最後の驚きは、旦那が以前写真を撮ったおばあさんだった。
去年の夏、上から下まで普段用の民俗衣装を身につけていた。
旦那ひとりがおばあさんと話し、
「家の前で待っているから、来なさい。」と約束事を交わしていたのだ。
真っ暗になった坂道で、おばあさんは大きな荷物を両手に立っていた。
誰を待っているのかと思えば、私たちだった。
私たちの車のところまで見送り、
ずっしりと重い荷物を手渡してくれた。
何キロもあるクルミと、骨付きの燻製肉だった。
村人にとって、大切な食糧であることはすぐに分かったので、
動揺していると、「あとで袋を開けたら何かわかるわ。メリツァには内緒にね。」と
いたずらっぽく指を口にあてた。
私も今日スーパーで買ったばかりのさまざまなものを袋に入れて手渡した。

誕生日を祝いに来たのに、荷物入れに入りきらないほどのお土産を逆にもらい、
心からのおもてなしを受けて、温かな気持ちとなった。
ここでは、お金では手に入らないもの、
人の繋がりがもっとも大きく、大切なものと人々は心底信じている。
普段の生活の中で見失いがちだった何かを思い出させてくれるようだった。







comments(0)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2019-11-20_17:54|page top

6月は別れの季節

ここトランシルヴァニアでは、
秋に学期が始まって、夏に終わる。
そのため、6月は卒業の季節となるのである。
我が家の長男は、もうすぐ中学校を卒業し、
高校受験を控えている。

想えば、ここトランシルヴァニアに引っ越してきた11年前。
ひとり息子だった長男は、幼稚園に通いはじめた頃だった。
幼稚園から小学校、そして中学校と終えた。
あと4年したら、巣立っていく。
子どもと過ごす時間の少なさに頬をつままれるような思いだ。

我が家のキッチンの窓から下を見下ろすと、
中学校の校庭がある。
休み時間のベルが鳴るとすぐさま飛び出して
一番にボールを蹴っているのが長男だ。
私も旦那の背丈も追い越して、我が家では一番体が大きい。
それなのに、心と体のバランスが取れず、
まだ友達と遊びたい一心でいる。
家族や兄妹の存在が煩わしく、ひとりで部屋にいる時間が至上と思う、
思春期の真っただ中である。

子どもでいられる時期は短い。
あっというまに成長し、誰もが大人になるという事実を突きつけられ、
そこから逃げるすべはないのだ。
進路という、一つの分かれ道に差し掛かかっている。
勉強という障害から目を背けようとする長男に、
いらだつ自分もいるのだが、
その一方で人の進むレールに乗っていくことばかりが
生き方ではないのではないかと疑心する自分もいる。

秋になり、学校のベルが鳴っても、長男の姿が校庭に見られなくなるようになり、
ひとつずつ遠く離れていくのを感じるのだろうか。

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comments(0)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2019-06-04_17:23|page top

新年のあいさつ

セントジュルジの裏に広がる大きな森、
小川に沿った道筋をどこまでもいくと、
アーラパタク村にたどり着く。
月に一度、村のピロシュカおばあさんを訪ねるのが習慣になっていた。

慌ただしかった年末に、何か月かぶりに村に立ち寄った。
秋に一度、ずっと姿を見せないので心配して私の留守中に電話があったという。
眠る次男を腕に抱いて車の中で待っていたら、
寒い中、わざわざおばさんが通りまで出てきてくれた。

ある日曜日、楽しみにしていた教会の礼拝にも行けず、
部屋をそわそわと歩き回り、気持ちが落ち着かなかった、独り身の辛さを訴えた。
しわしわの手を握って、話を聞いてあげることしかできなかった。
私などは家族に囲まれても心が定まらない日があるのに、
子どももなく、夫に先立たれたおばあさんの気持ちは計り知れない。

月に一度、旦那たちがブラショフの町に出かけている間、
娘とふたり、おばあさんの家で待たせてもらった。
刺繍をしたり、おしゃべりをしたりしながら時間をつぶした。
飽きると、讃美歌を取り出して、いっしょに歌を歌ったりもした。

「私は毎年、新年がくるとこの詩を色々な人に聞かせるの。」
と一枚の紙を取り出し、詩を朗読してくれた。

今までの私なら、何ということもなかったのであろう。
しかし、40の扉を開き、
海外在住10年目の年の終わりに次男の大病に見舞われた私の心に
その言葉は大きく響いたのだった。
その一枚の紙きれの言葉を書きとった。
80を過ぎたおばあさんは、新年を迎えるにあたり、
この一年の行く末をいかに案じ、
新年のその日をいかに重く受け止めていたに違いない。


「今ちょうど、新年の明け方の前にきています。
果たして、皆そろって日暮れ時までいることができるでしょうか。
この新しい年に、私たちの人生の道はいずこへ続くのでしょうか。
いばらか、それとも花の道か、
それは神さまのみが知ることです。
神さまが真実の道へと導き、
私たちの歩み全てをつかさどるのです。
どうか、この小さな幸せなる巣を嵐から守ってください。
健康と幸福と、楽しい笑いと鈴の音を、
どうか神さま、私たちに恵んでください。
新年、明けましておめでとうございます。」













comments(2)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2019-02-25_18:42|page top

黒い天使

次男の病気のことが分かり、まだ混乱の最中にいた頃、
「明日ブカレストへ行くから、家から荷物があったら届けてあげる。」とメッセージがきた。
そんなに急ぎでもないので、郵便でも送れないことはなかったのだが、
彼女の好意に甘えることにした。

その頃は病院の付き添いに姑がいてくれたため、
私は外のホテルに滞在していた。
日本から慌てて荷造りをしてきたため、
冬の寒さに備えた衣服がなかった。

木枯らしの吹く寒い晩秋、どんよりと厚い雲が空を覆っていた日、
病院に彼女が到着した。
いつものように黒い衣装に身を包んだ彼女は、
これからプロィエシュティでコンサートがあるという。
彼女の次女は、娘の幼稚園のクラスメイトである。
産まれて四ヶ月で、次女のアビは心臓の手術をしなければならなかった。
「その頃は、私はコンサートでドイツに行かなければならなくて、
一番辛い時期に、スターの役を演じなければならなかった。」
そうして手術後は、集中治療室で一日30分しか娘の姿を見ることができなかった。
「そんなときは、私は外を思い切り散歩したわ。」

私も同様に、午後の3時から8時までの
面会時間だけしか次男と会うことができなかった。
次男のそばにいる時は安心して笑顔でいられたが、
離れてホテルの部屋に一人でいるときは、
心細さで押しつぶされそうだった。

殺風景な待合室で、椅子にもかけずに彼女は話してくれた。
アビの主治医に先日会って、息子の手術を担当する医者について尋ねてくれたという。
「大丈夫。イリエスク先生は、この病院で一番のお医者さんで、
人間味あふれる人だとの評判だそうよ。」
彼女も、娘さんを良い医者の手に託すことにし、安心できたという。
医師としての評判はもちろん、いつも穏やかで人の心が解る主治医に恵まれた、
私も同じ心持ちだった。

私の衣服の詰まったリュックとともに、
袋いっぱいの差し入れを手渡してくれた。
思いの他、長話をしてしまったことに気がつき、
ふたりの娘さんは車の中で待たせていることがわかった。

別れ際、彼女の目に涙が浮かんだ。
私も同様に涙していた。
肩を抱きしめ、「あなたは強くならなくちゃ。」と言った。
「そうするわ。」と約束をした。
颯爽と病院の扉を開けて出て行く彼女の姿は、
黒い天使そのものだった。

ジャズシンガーのルイザ・ザンの歌声は、
強く、そして優しい。
彼女の人柄そのもの。

あれから3ヶ月。
次男の検査の前日、私は彼女のコンサートへ向かう。
どうしても今、彼女の歌声から力を得たいから。

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comments(0)|trackback(0)|トランシルヴァニア食文化|2019-02-21_17:49|page top