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トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニアのフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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刺繍の達人おばあちゃんたち

7月下旬にトランシルヴァニアからワークショップをお届けする

支援型プロジェクトは、新しい可能性を示してくれた。

5月28日に募集を開始して、5日後には目標金額に達することができた。

私自身も信じられないほどの反響に驚いている。

応援してくださる方々の気持ちが後押しをしてくれ、

これまでにないあり方のワークショップを実現することができそうだ。


まずはじめに、おばあさんたちに連絡を取り、

この良き知らせを伝えることに決めた。

私はふだん電話でのコミュニケーションが得意でない。

特に用事がないときに、人を呼びだし、

何となしの会話をするのが苦手だ。

しかし今回は大切な報告があるので、心は弾み、ボタンを押した。

はじめに、ビーズ刺繍のエルジおばあさんを呼んでみたが、出ない。

次に、シク村のエルジおばさんの番号を押し、懐かしい声が飛び込んできた。

ちょうど今、娘さんの住む町から帰ってきたところで、

片足の痛みのためにマッサージに通っていることを話した。

「いつ家に帰ってくるの?」おばさんは尋ねる。

シク村に古い家をもつ私にとっては、もう一つの故郷である。

それなのに、200kmの距離は遠く、なかなか帰ることができないでいる。

我が家の庭にも草がぼうぼうに茂っていることなども聞き、

古いが美しい家に対して、何とも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

そして、ワークショップの話をもう一度詳しく聞かせると、

「ええ、いつでもいらっしゃい。待っているわ。」と

いつも包み込むようなエルジおばさんの声が耳に残る。


erzsi kicsi


イーラーショシュの図案描きアンナおばさんの電話は、電源が切れている。

普段はよく電話に出ることのないアーラパタク村のピロシュカおばあさんが、

珍しく電話を取ってくれた。

調子を聞くと、あまり良くないと答える。

それもそのはず、6月初めなのに寒波がやってきて、

連日雨ばかりで肌寒い日が続いている。

「私はやることがなかったり、閉じこもって人に会わないでいるとき、

調子も悪くなるのよ。」

80代半ばでひとり暮らしのおばあさんは、

ここ数年で目に見えてやせてきて、私も心配している。

もしかしたら当日、体調不良になってしまう可能性もないわけではない。

他にも、刺繍ができる人を迎えようと提案をすると、

「大丈夫、私一人でできるわ。

忘れたの?あなたにだって教えたじゃない。」と強気な返事が返ってくる。

おばあちゃんの声がだんだん力強さを帯びてくるのを感じ、

安心して電話を切った。


piroska.jpg


しばらくして、エルジおばあさんから呼び出しがきた。

いつもなら、おばあさんから暇なときに電話をかけてきてくれる。

「今ちょっと仕事があってね。」と前置きをしてから、

「ね、今どんな仕事に取り掛かっているか分かる?」といらずらっぽい口調で尋ねるので、

こちらが興味を持つと、

「我が家にお風呂場を作っているのよ!」と重大ニュースを打ち明けた。

伝統的な村の住まいには、風呂場はなかった。

昔はどこの家庭でも、たらいで体を洗うのが普通だった。

「まさか70過ぎてから、こんな大掛かりなことをするなんて夢にも思わなかったわ。」

ひとり息子のバンディはもちろん手伝わないし、

働き手を雇って工事をしているという。

ワークショップのことを話すと、

「私がそれまで元気だったら、もちろん手伝うわ。」と張りのある明るい口調で答えた。


erzsi2 kicsi


何度かけても、アンナおばさんの電話につながらない。

クルージの町に住む娘さんに尋ねてみると、夜なら出るだろうとのこと。

ちょうど自宅でお風呂に入っているときに、電話をもつ旦那の手がのびてきた。

アンナおばさんからだった。

ペトリ村は、ほとんどが未亡人のおばあさんたちでなる小さな村だ。

70歳のアンナおばさんはそれでも若い方で、教会のオルガンも弾き、

皆に頼られるしっかり者だ。

何よりも、イーラーショシュの図案を創造性豊かに描く、芸術家でもある。

5年ほど前からパーキンソン病を患い、

健康の状態も年々衰えていっているのが分かる。

ワークショップのことを話すと、「いいわ。」としっかりした答えが返ってきた。

数年前に、雪の積もる中、文化服装学園の社会人講座の受講生の方々といっしょに村を訪ね、

村のおばあさんたちと刺繍で交流をしたことが忘れられない。

女性特有の活気と、共通の趣味でつながる想いは、

時に言葉の不自由さも乗り越え、心と心でつながる時がある。

あの奇跡のような時間を、もう一度と心の中で思い描いてきた。


anna.jpg


私たちを隔てる距離は大きいが、刺繍を通じて見えない手でつながっている。

その手がさらに一人、もう一人と繋がっていき、

ひとつのものを作り上げることができたらどんなに素敵だろう。

今ここでできること、

ここから発信できること。

その力を信じ、ワークショップを成功させたい。


トランシルヴァニアから伝統手芸を広めたい!
(Onlineワークショップproject)
現在も支援者を受け付けています。

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comments(0)|trackback(0)|その他|2021-06-03_21:32|page top

リアの声

それは去年の春の日だった。
外出禁止令が発令され、
私たちの生活が見えない紐で縛られるようになってくるのを
感じ始めていたとき、電話が鳴った。
「もしもし、セイコ!」
第一アクセントが強く発せられるハンガリー語に対し、
ルーマニア語では真ん中が強くなる。
それが数少ないルーマニア人の友人リアであることが、すぐにわかった。
電話番号が変わったのか、音信不通となり、
久しぶりにかかって来た電話だった。

「私は病気なんだけれど、
うちに注射に来てくれる近所の看護師さんがハンガリー人で、
久しぶりにハンガリー語で話したところよ。」
と彼女は楽しそうに話す。
トランシルヴァニア地方でルーマニア人とハンガリー人の確執があるのは事実だが、
もちろんそれは人によって違うし、
何よりトランシルヴァ二ア人はそんな偏見を持たないのが普通だと思う。
彼女は、クルージュ県トルダの近くの村出身で、
小さいころからルーマニア語、ハンガリー語が聞こえてくる環境にあったという。
変なプライドは持たず、ハンガリー人には進んでハンガリー語を話すし、
彼女は自分がもう一つの言語を持つことに誇りを持っているように感じる。

今から21年前の大学生時代に、
単身でトランシルヴァニアにやって来た私が
彼女の娘デリアとルームメイトになったのは幸運なことだった。
北部の町ビストリツァで生まれ育ったデリアは、ハンガリー語はできなかった。
高校生で英国留学をしたので、流ちょうな英語を話した。

ある日、娘に会いにやって来た母親がはじめて対面するなり、
「私はあなたのルーマニアの母親よ!」と迎えてくれたのだった。
同じ年ごろのデリアより、
不思議と母のリアの方が親しくなっていた。
無邪気で屈託のない彼女は、
時にまるで子供のような態度でデリアに叱られていた。
「気をつけないと、先生に怒られるから。」といたずらそうに
娘の顔をうかがっていたものだった。

彼女たちが信仰するバプティスト派の教会にも呼ばれていったことがあった。
お説教も、ミサの雰囲気もひとつも心に響くものはなかったのだが、
リアの手をとって祈るときだけ、
彼女の心の中に神が感じられるようだった。

彼女は愛を実行することのできる人だった。
見知らぬ人でも困っている人なら誰にでも救いの手を差し伸べた。
ある日、ハンガリー人の年寄りの女性が一人暮らしで困っているからと誘われて、
一緒に高層アパートの最上階へ訪ねたこともあった。
リアもそれほど深く知っているわけでないらしかったが、
構わず食べ物を差し入れ、一人で孤独な女性の話相手になっているようだった。

10年前に一度、彼女に出会うことができた。
クリスマス前のある日、クルージュの町の喫茶店で、
彼女は魔法のような手料理(持ち込み)で私たちをもてなしてくれた。
その時に、乳がんの手術をしたことを話した。

娘のデリアは、大学を卒業して以降ずっとイタリアで働いている。
彼女とFBで繋がり、母親の様子を尋ねてみたのだが、
「毎日、生きていることが奇跡。神に感謝している。」という漠然とした答えしかなかった。
恐らく、病気が再発をしたに違いない。
暗い予感の中で、彼女の明るい声の調子だけが心を軽くしてくれた。
それから、何度か電話を試みてみたことがあったと記憶している。
いつでも電話をとれる状況でなかったのかもしれない。

3月10日、彼女の誕生日というリマインダーが来た。
彼女のページに誕生日を祝うメッセージを残したが、
デリアに「もし調子が良ければ、電話をしたい」という旨を伝えた。
数日後、返事が来て、
「調子はまあまあ。それでもあなたからの電話は嬉しいだろうから、試しにやってみて。」
という言葉に励まされ、彼女のダイヤルを打った。
しばらく待って、電話口に出たのは男性の声だった。
拙いルーマニア語で、自分だと伝えると、
彼女に電話に出られるかと確かめてから、受話器を彼女に渡した。

彼女の声は小さかった。
「セイコ、病気だから、あまり長くは話せないかもしれない。」
といいながら、咳をしていた。
「誕生日だから、電話をかけようと思ったの。
すぐにでも飛んでいきたいけれど、今の状態ではとても・・。」と私は弁解した。
「COVIDね。」と彼女。
「ちいさな孫の写真を見せたいから、送るわ。What's UPは持っている?」
「ええ、息子が先日ダウンロードしてくれたから、探すわ。」
今のひと時を噛みしめるようにゆっくりと話した。
「今は歩けないけれど、
神様が助けてくれて、元気になったら、また会いましょうね。」
「ええ、必ず。」と私は声の調子を強くした。
「私の電話で出られなかったら、主人の番号を鳴らしてちょうだい。」
彼女の話すルーマニア語の番号を集中して書き取った。
咳をする彼女に、
「病気なの?」と自分でも子供らしいと思いながら尋ねると、
「ええ・・。でもそんなに悪くないわ。」と少し余裕を感じさせる軽い口調で言った。
「神様のご加護を。」
「神様のご加護を。」と言って別れた。

すぐに慣れないスマートフォンをいじって、
彼女の連絡先を検索したのだが、出てこない。
リストにも名前がなかった。
どうしたのだろうと思っていたら、
デリアが私を探し出してくれ、彼女のアドレスを教えてくれたのだった。

デリアの送ってくれた写真。
白髪のリアが、ベッドで手を振ったり、明るくふるまっている写真から、
天使のような赤ちゃんを膝に抱く、車いすの姿、
やがて、ベッドの上で半年くらいの動き盛りのお孫さんを抱く姿など。
この半年くらいの間で、みるみるうちに痩せて年を取っていく
彼女の様子が克明に記録されていた。
それでも、病人の姿は哀れをそそるものではなく、
彼女の内面から発せられる明るさで満ちていた。

彼女のコンタクト先を見ると、
2,3週間前から誰かが写真付きのメッセージを立て続けに送ってきて、
閉口していたのだが、その相手だった。
色とりどりの花束に詩が載せられたものを長女が眺めながら、
私の携帯の待ち受け場面に設定していた。
彼女が前から、サインを送っていたのに気づかずにいた・・。

私が彼女にしてあげられることはないだろうか、と思いめぐらせていたら、
ふと、思いついた。
この週末に、シク村の家でガスを引く手続きをしに行こうと思っていた。
それでは、いっそ、北上してビストリツァに寄ってはどうか。
彼女に会えなくても、ご主人を呼び出して、
誕生祝いに花束を届けることならできるかもしれない。
運がよければ、窓から私たちの姿も見えるかもしれない。
そう決めて、デリアにその旨を伝えると彼女も喜んでくれた。

やがて、リアから録音メッセージが届いた。
「ハロー、セイコ。セイコ・・・。」
私はそれを聞くとほっと安心して、
後でメッセージを送ろうと思い、携帯を閉じた。

もうひとつ、プレゼントを思いついた。
それを英語に訳してみよう。
デリアならルーマニア語に訳して、彼女に届けることができるだろう。
その日の午後をかかりっきりで、
辞書を引き引き、何とか訳し終えた。
「これは、あなたたちへのプレゼント。」とデリアに送った。
「あなたは、私たち家族にとって特別の存在よ。」とデリア。
「私にとってもよ。あなたたちが私のトランシルヴァニアへの扉だったの。」
素敵な家族に迎えられ、孤独だった私はひと時の安息の場を得た。
そして、のびのびと留学時代の半年を過ごし、
それが私の一生を大きく変えることになったのだ。

その翌日、カロタセグから友人一家が訪ねてきて、
共通の友人宅で会うことになっていた。
楽しい再会にお昼までごちそうになってから、
午後は出発のための準備をして、お菓子を焼いたり、
食事の準備をしたりで忙しかった。
やっと、食べ物の準備ができたと気が抜けたとき、
携帯の着信がなった。
ルーマニア語で何か書いてある。
旦那に頼んで読んでもらった。
「ママが、今日の午後亡くなった。」

ああ、リアのことだった。
しばらく、脱力感で呆然とベッドに座っていたのだが、
やがて、自分の無力さとこの10年という時間が悔やまれて仕方なく、
とめどもなく涙があふれてきた。
あの時、彼女は最後の力を振り絞って、私と話したのではないか。
訪ねようと思えば、彼女の元へ行けたのではなかったのか。
無為に過ごしたあの時期に、彼女のために何かしてあげることはなかったか。
後悔がとめどもなく、押し寄せる。
次男が心配そうに私を見つめ、
「元気になって。僕、いい子になるから。」と慰めてくれる。

明け方、長男が原因不明の腹痛を訴えていたが、
夜にまた痛みが出てきた。
旦那が救急病院へと連れていく。
盲腸になる一歩手前とのことで、痛み止めでもし治らなければ
手術が必要だということだった。
こうして、私たちの遠出の予定は引き伸ばしとなった。

会いに行く予定だった日曜の朝、
ベッドの中でデリアに返事を書く。
「彼女は遠くへ行ってしまった。
やさしい両親と天国で会えますように。
彼女は病気で苦しんでいるときでも、
私をはじめ他人に優しさを届けてくれた。
彼女のことが、ただ恋しい。」
「彼女はあなたの声が聴けて幸せだったわ、そして次の日のメッセージも。
今はきっと天国にいて、神様の威光の元で永遠を楽しんでいるに違いないわ。」
彼女からの返事にほっとした。

火曜日の昼に、リアとの告別式がある。
10年ぶりの再会がこんな形でやってくるのはやるせないが、
彼女との別れのためにビストリツァへ。

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ザ・龍之介

7BookCoverChallenge  第7日目
ザ・龍之介 第三書館
芥川 龍之介 1892年〈明治25年〉- 1927年

いよいよ最終日、ふたつの本が候補にあって、どちらにしようか迷い続けていた。
趣味のための本を選ぶことができなかった私を変えてくれた本。
ハンガリーで留学時代に、たまたま日本の本と思って手に取り、
何気なく手に取り買ったのが、20世紀初めの古本。(この本が見つかりませんでした)
ハンガリー語のタイトルは「日本のデカメロン」。
名前はえっ?という感じだが、官能性を感じさせる珠玉の小説が集められている。
19世紀末のセセッション(アールヌーヴォー)に魅了され、研究テーマにも選んだ学生時代、
その薫り高い美意識が同時代の日本の文学界にも息づいているのを感じた。
日本の文学黄金期、明治末、大正時代の作家のスター作家の作品が並んでいたように記憶している。(谷崎潤一郎、樋口一葉、川端康成・・­)
そして、それぞれの作品の前に作者の紹介もしてあるところが丁寧だ。
ハンガリー語の訳も素晴らしく、のちに日本語で親しんだ内容とまったく違和感がなかった。
ハンガリー語で唯一完読した文学書が、日本文学だった。
中でも、芥川龍之介の袈裟(けっさ)と盛遠(もりとお)の独特の緊張感、
刃のような言葉の切れ味にぞくぞくとした。

日本に帰国して、BOOKOFFでわずか100円で買い求めたのが、この芥川集だ。
まるで蚤のように小さな文字で、安いわら半紙に印刷されているが、
全作品が収録されているという。
ページをペラペラとめくり、気になったところを拾い読みするという手法で、
芥川の作品に親しんだ。
短い文章の中でまるで写真のように、人生の断面を切り取る美しさ、その無駄ひとつない文章。
西洋文学と日本文学、漢文学という3つの要素を吸収した芥川は、
大正時代という文化的精神的にひとつの黄金期を迎えた時代に
生まれるべくして生まれた才能ではないだろうか。
芥川は、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』などの説話文学に着想を得た作品を数多く残していて、前回の小泉八雲の作品にも通じる、怪異的なモチーフを見事に作品の中に生かしている。
また、キリシタン文学を題材にしたものも多く、日本における異文化を存分に味わうことができる。
芥川の晩年は不幸にも神経を病んで、自死を選ぶことになるのだが、
遺稿のひとつ、「人と死と」という作品の中で、このような問答がある。

作者 あなたは、いつでも、獨りで、さみしくはありませんか。
月 ちつとも、さみしくはないよ。
作者 さうですか。私は、友だちが大ぜいゐてもさみしくつて、仕方がありません。
月 友だちが澤山ゐるから、さみしいんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・
作者 あなたは、いつでも、空ばかり歩いてゐて、さみしくはありませんか。
月 ちつとも、さみしくはないよ。
作者 さうですか。私は、仕事が澤山あつてもさみしくつて、仕方がありません。
月 仕事が澤山あるから、さみしいんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・
作者 あなたはようござんすね。
月 何故だい。
作者 いつでもさうしてゐるでしせう。銀貨のやうに白くなつたり、縫針のやうに細くなつたりしてもやつぱり、ちやんとさうしてゐるでせう。所が人間はさうは行きませんよ。
・・・・・・・・・・・・・・・
作者 私は、又、死ぬ事を考へると、何時でもきつと、さみしくなつてしまひますよ。
月 さうかい、私は死ねない事を考へたら、急にさみしくなつてしまつたよ。

わずか36歳で人生を閉じた芥川が、3人の息子に「芸術家にはなるな」との遺言を残したらしい。
しかし、長男は俳優、次男は詩人、三男は作曲家(芥川 也寸志)という風に、
芸術家の遺伝子はしっかりと受け継がれていったようだ。
#7days #7bookcovers #7BookCoverChallenge

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中島敦

7BookCoverChallenge  第6日目
中島敦(なかじまあつし) 1909-1942 筑摩書房

漢学者の家系に生まれた中島は、豊かな教養と格調高い文章で知られる。
ここに収められている小作品の数々は、古代中国のみならず、
オリエント地方や彼が晩年に赴任した南方パラオ島に着想を得たものなど、幅広い。

古代アッシリアを舞台にした「文字禍」という作品がある。
古代社会で文字を知ることによって、生まれる弊害に翻弄される人々が
ユーモアを混ぜて書き綴られている短編である。

「文字の無かった昔、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。
今は文字のヴェイルをかぶった歓びの影と智慧の影としか我々は知らない。」

私たち大人が文字の力に頼ることの多いことに気が付いたのは、長男が幼稚園生の時だった。
日本のわらべ歌を教えにいったのだが、
幼稚園の先生は文字に書かないと日本語の歌詞が覚えられないのに対して、
まだ文字を知らない子供たちはいともたやすく耳から入ってくる日本語をインプットしたのだった。
6歳の長女はまだ文字を多くは知らない。
絵でどんなことも記号化して、彼女なりの思考で記録している。

中島がパラオの見聞した、または実体験の出来事を題材にした南方ものの作品も興味深い。
「夫婦」という作品の中では、痴情にからむ女同士の喧嘩(ヘルリス)について言及している。
村人が監視する中で、戦いを繰り広げる。
それも衣服が裂けて、ついに立てなくなって勝敗が決する。
勝者は村人から祝福を受け、正しき者との判断も下されるというのだ。
この話の中では、腕っぷしが強く、浮気者、しかし焼きもち焼きというどうしようもない妻と、
気の弱い彼女の夫、その恋人となった美しく、若く、強い女性との三角関係が
ユーモアたっぷりに描かれている。

「マリアン」では、中島と友人の人類学者、土方久功(ひじかたひさかつ)、
そして日本語、英語に堪能なパラオ人のインテリ女性マリアンとの交流が語られる。
ミクロネシア系の特徴をもつマリアンの中に美を見つける筆者の感性も素敵であるし、
彼女を通じて当時のパラオの風土や習慣がよくわかる。

池澤夏樹氏の論評のところで、一般に作家は性格の悪い人が多く、
親しく付き合いたい人間は少ないが、中島となら一緒に南の島々を回ってみたかった、
というのが印象深かった。
「山月記」しか知らない方々には、この南方の作品群に著者の意外性を発見することだろう。
ちくま日本文学シリーズは選出も良好で、装丁も美しく文字も読みやすいのでお勧め。
#7days #7bookcovers #7BookCoverChallenge

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小泉八雲集

7BookCoverChallenge  第5日目
小泉八雲集

小泉八雲、またの名をラフカディオ・ハーンLafcadio Hearnという。
1850年 - 1904年(明治37年)

アイルランド人とギリシャ人の血を受け継ぐ彼が、
新聞記者として日本の地を踏んだのは1890年(明治時代)だった。
侍の娘セツと結婚し、95年に日本人に帰化、
1904年に逝去するまで数多くの著書で日本の文化を幅広く紹介した。
日本語の読み書きはできなかったようで、
すべて口承で怪奇なもの、霊的な話を採集、記録し、彼独自の文学作品へと昇華した。
この本には、「怪談(kwaidan)」に代表される小説だけでなく、
「知られぬ日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan)」のような文化的考察の論文や
エッセイに近いものまで収録されている。

彼の出会った日本は、モースなどの写真にも見られるような、
江戸時代までの古き良き日本の名残をとどめていた時代だったのだろう。
彼の外部からの、愛情深い眼によって、
西欧化近代化によって失われつつあった日本人の心情、
精神世界の美しさは丁寧に摘み取られ、花ひらく。
その愛情と敬愛のあまり、彼は日本人そのものに同化しようと試みる。
彼のような知識人を当時迎えた日本は幸運だったに違いない、
後に花ひらく日本の文学界にも多大な影響を与えたのは間違いない。

日本人の微笑(the japanese smile)という論文がある。
当時の西欧人に理解がしがたかった日本人のもつ微笑の意味を探りつつ、
日本独特の精神文化を論じている。
あるとき年老いた侍が主人の英国人の怒りに耐えた末に微笑を見せた。
その数日後に切腹をしたという話。
英国夫人の手伝いの女性が、亡くなった夫の骨壺を見せて笑ったという話。

この微笑は、日本人の誇り、奥ゆかしさ、他人に対する敬意様々なものを隠し持っているという。
作品はこう締めくくられている。

「現在、日本の若い世代の人たちがとかく軽蔑しがちな過去の日本を
・・・いつの日かかならず日本が振り返って見るときがあるだろう。
素朴な歓びを受け入れる能力の忘却を、純粋な生の悦びに対する感覚の喪失を、
はるか昔の自然との愛すべき聖なる親しみを、
また、それを映していた今はほろんだ驚きべき芸術を、懐かしむようになるだろう。
・・・おそらく、そのなかでもっとも驚嘆するものは、古い神々の温顔ではなかろうか。
その微笑こそが、かつての日本人の微笑にほかならないからである。」

私が彼の名を知ったのは、単身赴任で松江に一人暮らしをしていた父を訪ねた時だった。
旦那とまだ赤ん坊だった長男を連れて、ラフカディオの愛した松江の町を歩いた。
古風な町のあちこちに、かつて彼の見たであろう、
さまざまな霊や魂、神々の姿が今なお隠れ住んでいるような気がした。

#7days #7bookcovers #7BookCoverChallenge

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