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トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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ブログ翻訳

コリンダ

例年よりも暖かな、クリスマスの日。
黒いクリスマスといわれるのは、
白い雪がなく、どこか暗い雰囲気があるからなのだろう。
普通なら家族で過ごすだけの静かな祝日なのに、
ルーマニア人の暮らす伝統的な村では、
冬の習慣コリンダがみられる。

隣のブラショフ県へと車を走らせた。
目指す村へ行く途中、
ちょうど民族衣装を着た少年たちが通りを歩く姿と遭遇した。
楽団も付き添い、手に籠を持っている姿も見られる。
ある家に入っていくので、
吸い込まれるように中へと入っていった。
中庭は、すでにお祭りの興奮が満ちており、
アコーディオンの音色と若者たちの陽気な歌声がこだましていた。
黒い上着の下には、白い羊皮のベストを着ており、
どれも色鮮やかな刺繍がほどこされている。

よそ者の訪問者であるにもかかわらず家の主人が手招きをしてくれたので、
よい場所で撮影をすることができた。
演奏を終えると、主人は若者たちを飲み物や焼き菓子でもてなした。
一息つくと、すぐに若者たちは
次の宿を目指して出て行った。

P1270482.jpg

目的としていた村では、
子供の小グループが歌を歌いに近所を回るだけのものだった。
たずねると、昨夜に若者たちの伝統行事は終わってしまったらしい。

仕方なく、フォガラシュ地方の北側へと向かった。
村で聞き込みをしていると、
明日の12時に教会の前であるという情報を得た。
その翌日、ルペアの近くにある村を訪ねることになった。

教会の前へ行くと、
確かに羊の毛皮のコートに身を包んだ少年たちがいた。
中には、地面に横になって眠っている者もあった。
たずねると、「大丈夫。もうすぐ、歌うよ。」という返事。

白い羊皮のベストに刺繍、
さらに目を引いたのは美しい帽子飾りだった。
色とりどりの造花に鏡が添えられ、
よく見るとひとりひとり違っている。

ルーマニア正教会の中で、神秘的な神父の歌声が響き、
中に置かれたクリスマスツリーが昨夜の祝日のにぎやかさを物語っていた。
しばらくすると、民族衣装をきた少女たちが次々と教会に到着し、
ミサの終わりに歌を歌いはじめた。
旦那を呼びに外に出ている間に、
今度は先ほどの少年たちが到着して、
すでに不思議なリズムの歌を歌っていた。

拍子抜けをするようにあっという間の出番だったので、
村人たちに拙いルーマニア語で尋ねてみると、
目的としていたヤギの人形の出番はすでに終わっていたようだ。
昨夜12時から朝までこの若者たちは村を回って、歌い疲れていたのだ。

がっかりとしながらも、何とか村のことを何とか聞き出し、
優しいおじさんが伝統的な住まいを見せてくれると約束してくれた。
こうして、おじさんの後をついていくと、
先ほどの若者たちがにぎやかに笑いながら通りを下ってくる。

P1270563.jpg

一人の少年を指さして、
おじさんは「あれが、うちの息子だよ。」といった。
集合写真を撮るときにも、熱心に上着を取れとか
親身になって指図してくれたのはそういうことだったのかと合点する。

おじさんはご近所の老夫婦の家に案内してくれた。
日本でいえばお正月に当たる、
最も神聖なクリスマスの祝日の昼、昼食前の微妙な時間。
断られても仕方ないのは覚悟の上だった。
しかし、優しい老夫婦は、外国人の私を喜んで迎えてくださった。
庭へと長く伸びた家の、道路沿いの一番奥の部屋を見せてもらう。
深い色あいの手織りの枕カバーが積み上げられ、
絵付家具に囲まれた心地よい空間。
何よりも家主のご夫妻に娘さん、通訳をしてくれたお孫さんの青年などが
親切にしてくださったことが何よりありがたかった。
民族衣装も見たく、聞きたいことも山ほどあったが、
「いつでも来なさい。」との言葉に甘えて、
今度ゆっくり出直したいと思った。
次の春に見られる行事を心待ちにしている。







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comments(0)|trackback(0)|その他の地方の村|2020-02-11_21:06|page top

レケチン村を訪ねて

チャーンゴーの村をいくつか訪ねた中でも、 もっとも印象深かったのはレケチン村だった。
ハンガリーの写真家ゲルグーは「ここからが本当の旅だよ。」と目を輝かせて言った。 
ショモシュカ村から森の中を通って、 
何キロか歩いてたどり着いた山奥の村。
森の脇の古い一軒の小屋で、 村で最後の産婆さんという女性が機織りをしていた。 
そのおばあさんは、目にも鮮やかな色合いの縞模様の布を贈ってくれた。 

ダンスキャンプでレケチン出身というチャーンゴーの女性と出会った。 
話しているうちにゲルグーを昔からよく知り、泊まっていくと話した。 
キャンプも終わりに近づいた日、メリツァはこういった。 
「明日は遠足で、ちょうど村のそばの森に行くから、 その後、村の私の家に案内してあげる。」 
願ってもない申し出に、心が躍った。

 18年前に徒歩でいった森の道は何処にあるのだろう。 
山あいの小道を通り、車で村に入った。 
村はずれで車を止めると、 メリツァは
「ちょっと待っていて。トウモロコシを取ってくる。」と 縞模様のかばんをひとつ持つと
緑の茂った畑へ小走りで向かった。 
彼女の手伝いにと、私も後を追って2、3Mはあるトウモロコシ林の中に入っていく。
彼女が手渡すトウモロコシを入れて、かばんはどんどん重さを増した。 
黄色い実をつけたトウモロコシは、チャーンゴーの言葉でプイと呼ばれる。 
ルーマニア語でニワトリの意味だ。 黄色い色がヒヨコを連想させるから呼ばれるのだという。

村につくと、子供たちはぐっすり眠っていた。
道路沿いに車をとめて、そこからは徒歩になる。
旦那と私は子供をそれぞれ腕に抱いて、砂利の坂道を登っていった。
途中、水汲み場があって、
おばあさんが普段着の民俗衣装を着てバケツで水を汲んでいた。
あっと声が出るような、美しい光景だったが
二人とも両手がふさがり、カメラを出すことさえできなかった。

メリツァが、「ここが私の家よ。」と坂の中腹に建てた家に入っていった。
緑が茂った美しい庭で妹さんが働いている。
通されたのは、清潔の部屋だった。
色とりどりの織物で彩られたベッドに子どもたちをそっと置く。
美しいベッドで眠ることができて、なんて幸せなことだろう。

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部屋の隅には、飾りベッドの代わりに
きれいに折りたたんだ織りものが積み重ねてある。
モルドヴァ地方では、このように嫁入り道具を作りためるのだ。
この家では、残念なことにメリツァも妹さんも独身のようだ。

lekecsin2.jpg 
部屋の角には、マリア様の像が置いてある。
敬虔なカトリック教徒のチャーンゴーらしい住まいである。
部屋の角は「聖なる角」と呼ばれていて、
日本では神棚や仏壇のように信仰の対象となる品々を置くことがある。
セーケイ地方では角にちいさな箪笥を置いて、中に貴重なお酒を入れる光景も見られる。

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別の部屋も美しく飾り付けてあった。
チャーンゴーは華やかな色を好むので、
縞模様の色の洪水に目がくらみそうだ。
ロングクロスを半分に折って飾る習慣は、ルーマニア人の影響である。

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収穫したばかりのトウモロコシを茹でる間に、
美しい手仕事を次々と見せてもらった。
冬じゅう、織り機で織ったベッドカバーやかばん、帯などを
チャーンゴーのイベントなどで販売をしている。
さらに畑仕事や家畜の世話、自家製のワインやパーリンカなども作っている。

私たちが学生の頃は、あらゆる民俗学者がモルドヴァのチャーンゴー人の元へこぞって通っていた。
ハンガリー政府の援助をえて、研究が盛んな時代だった。
それと共に、各地の村にハンガリー語教育の施設や教師が送られ、
チャーンゴーの子供たちにはさまざまな奨学金や遠足などの機会が設けられた。
メリツァも、チャーンゴー協会に雇われて村で子供たちに手織りを教えている。

ビーズで編んだ美しいボンネット。
本の中でしか見ることのできない貴重な品だ。
これまでは外国人がたくさんの貴重な手仕事を持ち去ってしまったが、
メリツァは村に博物館を作り、地元に残したいという。
こういう意識をもつチャーンゴーの女性たちが、
ここ20年ほどの間に生まれたということは大きな収穫である。

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台所で、茹で上がったトウモロコシを頂いていると、
近所のおばあさんがやってきた。
「さあ、あなたも食べていきなさい。」
村では当然のようにご近所も食卓を囲む。

lekecsin6.jpg 
近所に古い家があって、おばあさんがひとり暮らしていると聞き、訪ねた。
ちいさな部屋は大人が4、5人しか座れないほどだが、
部屋の半分近くを占めるのは大きな竈だった。
土を塗り固めて作った巨大な空色の柱が天井へとつづいている。

lekecsin8.jpg 

帰り道、湧水のところで
旦那が念願のおばあさんに会うことができた。
村で何度も尋ねていた「白いブラウス」をついに見ることができたからだった。
刺繍のないただのブラウスは、日常着である。
本でしか見たことのなかった衣装は、
外国人のためでもなく、教会に出かけるためでもなく、
普段からおばあさんが身につけているものだ。

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メリツァとの出会い、
レケチン村の訪問によって、
モルドヴァ地方、そしてチャーンゴー人が近くなった。
いつか、子供たちにこのような村があったことを覚えていて欲しい。

lekecsin9.jpg 
comments(2)|trackback(0)|その他の地方の村|2018-08-27_14:41|page top

モルドヴァのサマーキャンプ

長旅を経て、ちいさな村ラーブニクに着くと、
通称「ハンガリーの家」と呼ばれるチャーンゴー団体が運営する宿舎で夕食が待っていた。
大皿にはたっぷりとあたたかな食事がのっている。
私たちは遅くに申し込んだため、宿舎ではなく、
チャーンゴーの家庭にお世話になる。

朝食を食べて、10時になるとプログラムがはじまる。
子どもたちは、徒歩10分ほどにあるルーマニアの小学校へ向かう。
先生たちと一緒に、ダンスと歌のレッスン。
  moldova (15) 
日本人の父親を持つヴィリくん、チャーンゴーのパウリナと手をつないで
遠足感覚で学校へ通う子どもたち。
どうやら次男が最年少のようだ。

moldova (16) 
その間に、大人向けのフォークダンスか楽器の授業が開かれる。
モルドヴァのダンスは、輪になって踊るものが多い。
カルパチアから西は、カップルダンスが主なのだが、東へ向かうとダンスも変わる。
音楽も、抒情的なトランシルヴァニアのそれに対して、
モルドヴァは陽気でスピーディである。
笛、ヴァイオリン、コプザと呼ばれる中世起源のギターのような楽器の中から選べる。

やがて、チャーンゴーのおばあさんに民謡を学ぶ時間がきてから、昼ごはん。
午後になると、毎日違う村からチャーンゴーのグループが
歌やダンスのショーをしてくれる。

子どもたちは、その間、手仕事の時間。

moldova (13) 
学校の前には、3台の機織りが置かれていて、
チャーンゴーのおばさんたちが機織りを見せてくれる。

moldova (14) 
美しい帯や巻きスカート、タリスニャと呼ばれる肩掛けかばんは、
手織りで作られている。

moldova (11) 
クレージェ出身のチャーンゴーのおばさんが、刺繍を教えてくれた。
シェルベットと呼ばれる、婚約の印のハンカチは、見事な刺繍が添えられる。
男性はそれを帯の間に挟み、教会に出かけるので、
花嫁の刺繍の技は村中の目にさらされることになる。

moldova (3)

残念ながら、現在は手織り布は使われず、
市販の粗い目の布に、化繊布で刺繍がされるので、
図案が大きく引き伸ばされ、発色も人工的になってしまう。
刺繍をしていると、おばさんがチャーンゴーの民謡を口ずさみ、
笛の音色も重なって、何とも贅沢な時間になった。
 moldova (2)

朝から晩までモルドヴァの音楽に囲まれる、一週間。
木曜日は、バスで森へと遠足に出かけた。
昔では考えられなかったことだが、森の中にペンションとプールが建てられている。
子どもたちは大はしゃぎでプールに飛び込み、
大人たちはビールを片手におしゃべり、休憩をする。
近くの村から、チャーンゴーの女性たちがやってきた。

moldova (10) 
チャーンゴーのダンスを見ている内にふと気づいたことがある。
美しいブラウスの袖が斜めに重なり、後姿がなんと美しいのだろう。
その袖を見せるために、このように腕を交差させるダンスが生まれたのかもしれないし、
ダンスの見栄えをよくするために、刺繍の豪華な袖が生まれたのかもしれない。

moldova (5) 
夕食が終わると、楽団を呼んで、明け方までターンツハーズ(ダンスパーティ)が開かれた。
18年過ぎて、出会ったチャーンゴーのイメージは大きく変わっていた。
チャーンゴーの女性たちの陽気なパワーに圧倒されるとともに、
彼らの中でチャーンゴーのアイデンティティーに自信が芽生えているのを強く感じた。
「私は伝統の保持者よ。」と自信を持って、
手仕事、歌や踊りにいそしみ、私たち外部のものに教えてくれるのだ。
そして優秀なものはチャーンゴー団体に抜擢され、
社員として働いたり、ハンガリーや外国で開かれるイベントへも招待される。

不思議な再会も後を断たなかった。
主催者ののひとり、ロズィが声をかけてくれ、
いつかクレージェの村で日本について話をしたことを思い出させてくれた。
「ずっと弟といっしょにそれを覚えていて、
ひらがな、カタカナといってふざけていたわ。」
私すら忘れかけていた過去の出来事がよみがえった。

何日か後には、クルージの大学の民俗学部で一緒だったチャーンゴーの少年ダニエルが、
大人のおじさんになって目の前に現れた。
「日本人らしい顔の子どもたちを見かけたから、もしかしてと思ったんだ。」
今は故郷の村でハンガリー語の教師をしているという。

ちいさな次男をいつも気にかけてくれたパウリナ。
故郷の村に家族を残して、夏のキャンプで働いている。
「君は私のペアなのよ。」といつも一緒にダンスをしてくれた。


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参加者や主催者が不思議な絆で結ばれた1週間。
最終日の夜には、お披露目会、ターンツハーズで幕を閉じた。
「来年もまた会いましょう。」
握手や抱擁を交わして、私たちはモルドヴァの地を離れていった。




comments(4)|trackback(0)|その他の地方の村|2018-08-19_16:37|page top

モルドヴァのチャーンゴー人との再会

カルパチア山脈を超えて、東へ。
今から100年より昔は、トランシルヴァニアの民にとってモルドヴァ地方は外国だった。
険しい山を乗り越えて、東の土地へ移住したハンガリー人がいた。
今のバカウ県の村々へ定住し、「チャーンゴー」と呼ばれた。
csangalはハンガリー語で流浪するという意味がある。

チャーンゴーがいつモルドヴァ地方へ流れていったのかは、他説がある。
敬虔なカトリック教徒の彼らは、宗教改革でプロテスタントに改宗されることを恐れ逃げたのか、
中世に長く戦火が激しかったため、兵役を逃れたセーケイ人がチャーンゴーになったという説もあるし、
もしかしたらそれ以上前にすでにモルドヴァ地方にチャーンゴーがいたという人もいる。

チャーンゴーと呼ばれるハンガリー語を母語とする民族が、
何百年も母国から離れて、時にハンガリー語を弾圧されながらも、
存在するということだけは事実である。
そして、90年代以降は、ハンガリー政府からの援助を受けて、
チャーンゴーが母国で知られることになり、ハンガリー語教育も受けられるようになった。
ただし、今でも教会のミサはルーマニア語、
学校教育もルーマニア語が強要されている。

私がモルドヴァの土地を踏んだのは、今から18年前のことである。
当時大学生だった私は、不思議な縁で
ハンガリー人写真家チョマ・ゲルゲイ氏と文通をするようになり、
初めてチャーンゴー人のことを知った。
チョマ氏は、社会主義時代の統制が厳しい時代から
モルドヴァのチャーンゴー人を取材し続け、時に牢獄に入れられ、
名前を変えたりしながらも、熱心に仕事を続けていた。
チャーンゴーのために、その生涯を捧げるほどの熱意を持っていた。

「神様の背の向こうへ連れて行ってあげるよ。」
まだハンガリー語の能力が乏しかった私に対して、
子どもに昔話を聞かせるようにチャーンゴーの話や民謡を聞かせてくれた。
2000年の春に初めてモルドヴァ旅行へ同行させてもらった。

ちょうどイースター休みだった。
ハンガリーから約20時間かけて、
電車を乗り継いで、クレージェにたどり着いた。
「日本人の顔をしたチャーンゴーがいる。」というので、訪ねると
遠く東からの客に喜んでくれて、
チャーンゴーの詩人ドゥマ・アンドラ―シュ氏は詩を作ってくれた。
ヨーロッパの中で、中央アジアに起源をもつハンガリー語を話す人々は、
一般にアジアに対してロマンを抱いている人が多い。
このルーマニア色の強い土地で、ハンガリー語を辛うじて話す人々は、
さらに遠くの同胞を欲しているのだろう。
チョマ氏のご婦人は日本語の研究者なので、
日本語とハンガリー語の共通点を興味をもって聞いていた。

クレージェからショモシュカへ丘を上がって行き、
ちょうど聖金曜日のミサへ参加してから、
夜更けにロウソクを手に、村はずれの十字架を巡礼した。

森を越えて、レケチン村へと向かった。
村はずれの最後の産婆さんの家で、機織りをする様子を見せてもらったのが印象に残っている。
おばさんは、美しい手織りの布を贈ってくれた。

不思議な縁で、1年間の留学期間で
私はモルドヴァを4度も訪問していた。
3度はチョマ氏に同行したのだが、
1度はクルージの大学の民俗学部からフィールドワークの一環として滞在した。
学生たちと村を歩いていて、
村人からルーマニア語で、
「ここはハンガリーではない!私たちはルーマニア人だ。」という意味の言葉を
投げかけられたこともあった。
ハンガリーとルーマニアの間で、自分たちの居場所が分からないチャンゴ―たち、
そうしたチャーンゴーというものに全く縛られず、
仕事を求めてヨーロッパを流浪するチャーンゴーたち、
祖先から受け継いだ言葉をひっそりと大切に守り続けるチャンゴーたち。

舅は、社会主義時代にチャーンゴーを研究する一人だった。
長い年月、モルドヴァの民謡を収集して、本を出版した。
1990年にローマ法王がブダペストでチャーンゴーたちと会見した時に、
その厚い本が贈られたという。
旦那は家族のように親しかったチャンゴー女性、ルーリンツ婦人ルツァおばあさんの話をよく聞かせてくれたが、チャーンゴーの村へ行こうとはしなかった。

時は流れて、2018年の夏。
今度は家族とともに、チャーンゴーの土地を再び踏んだ。

















comments(0)|trackback(0)|その他の地方の村|2018-08-17_14:55|page top

トロツコーの刺繍を訪ねて

宿を出ると、村のはずれの博物館へ向かった。
中庭のある建物の二階へ登ると、渡り廊下の前にもやはりダイナミックな岩山がそびえていた。

まず鉱山で働く人々に必要な鉄器具の展示物を眺め、
それからやさしい赤色が私たちを迎えてくれた。
閉ざされた環境でいかに長い冬を過ごしてきたか、
名もない女性たちの息遣いが感じられる。

  torocko (6) 
赤と濃い青の枕カバーを積み上げた、飾りベッド。
クロスステッチとサテンステッチのふたつの刺繍が見られる。
ふっくらと立体的なサテンステッチは、図案も入り組み、見ごたえがある。

torocko (5) 
年代や既婚未婚の違い、夏冬などの季節に応じて、
ひとつの村でもさまざまな衣装が見られる。
白いヴェールをかぶった花嫁衣装は、とくに美しい。
ザクセン人の影響を受けているのは、
銀のメダルやベルトなどの装身具。
赤い刺繍のブラウスは、いかにもハンガリー人らしい。

むかし、村のおばあさんにトロツコーの衣装を着せてもらったことがある。
とびきりの美人の後輩は、赤い刺繍にリボンの冠をいただく花嫁衣装に身を包み、
私はその横で青い刺繍のブラウス、スカーフを頭に巻いていた。
きのうの宿のおばあさんによると、
青いブラウスはお嫁にいけなかった女性の象徴ということだ。
ともいうおばあさんの妹さんも、青いブラウスを身につけていたらしい。
閉鎖的な村社会の中で、いかに屈辱的な思いをしたに違いない。

トロツコーには、ボビンレースも有名だった。
トロツコーのレースと呼ばれ、エプロンの端などに施されたが、
カロタセグ地方にまで輸出されたのは面白い例である。

torocko (11) 
いつか出会ったおばあさんが個人の展示室を持っているのだが、
おばあさんは高齢のため案内できず、家族のものも不在とのことだった。

今でも、この村で刺繍をする女性はいるのだろうか。
村で聞き込みをして、村のはずれまで訪ねて歩いた。

torocko (3) 
ドアをノックして、おばあさんがやさしく迎えてくれた。
刺繍を見せてほしいと告げると部屋に通される。
あたたかい空気とともに青い刺繍が目に飛び込んできた。
「今ちょうど刺繍を広げて刺していたところよ。」

刺繍枠を使い、サテンステッチでできた花模様のトロツコーの刺繍は、
80年代に図案集としても刊行された。
まるで織り機のような、自家製の頑丈な木の枠に巻いてある。

torocko (12) 
図案も自分で描くのかと尋ねると、
「私は、トロツコーのとなり村で生まれたの。
そこで図案を描き、刺繍をする人がいて、彼女に習ったのよ。」
長いあいだ、町で暮らしていたが、定年後に夫婦で村に帰ってきたという。

torocko (14) 
上から針を入れて、下の手で受け止め、
さらに下から上へと運ぶ。
吸い込まれるようにうっとりとその手の動きを眺めていると、
時間を忘れてしまいそうだ。
旦那に出発をせかされて、
今度来るときに刺繍を教えてほしいと頼むと、
おばあさんは「もちろんよ。時間ならいくらでもあるから。」と答える。

torocko (1) 
車に乗り込む時には、もう青空が広がっていた。
手がとどくほどの美しい山に手仕事のある村。
後ろ髪を引かれる思いで、この旅の目的である洗礼式のために
カロタセグ地方へと旅立った。





comments(2)|trackback(0)|その他の地方の村|2016-11-07_19:49|page top