トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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チャバの涙

トランシルヴァニアに引っ越してきて、はじめての年。
身近に三人もの友人、知人を失った。
何か、おそろしい落とし穴のようだった。


その年の暮れの、ちょうど12月のことだった。
よその町で開かれる、友人の展示会に招かれた。
オープニングがはじまる前、
友人たちとテーブルを囲んで話していたときだった。

「ああ、チャバが・・・。」
友人の彼女がとつぜん、涙を流して言った。
それに応じて、彼も重い表情でうなづいていた。
私たちはただじっと彼らを見つめる。
「知らなかったの?彼、死んでしまったのよ。」

信じられなかった。
けれども、どこか悪い予感はしないでもなかった。
長身で痩せ型の彼は、不思議すぎるほど穏やかで謙虚だった。
そして、どこか寂しげだった。

彼は、私たちにとって新しい友人だった。
その半年前ほどに彫刻家の友人を通じて知り合い、
いつしか彼の一人暮らしの住まいに招かれ、
いっしょに料理をしたり、語らったりして過ごしていた。

プルーン団子をいっしょに作ろう。
そんな呼びかけで、友人たちと集まって、
山盛りいっぱい茹でたての団子をとっつかみ、食べたこともあった。
くちの中で破裂したプルーンの赤紫の汁が、
まっさらなテーブルクロスのあちこちをにじませ、大笑いした夜もあった。

彼はいつか、自分の家の客間のテーブルにかけてある
赤い刺しゅうのテーブルクロスを誇らしげに見せてくれたことがあった。
「おばあさんから譲ってもらったもので、
はじめは汚れてひどい状態だったんだけど、
上等の漂白剤を使ってね。ここまできれいにしたんだ。」
彼のお祖母さんは、アーラパタクの出身だった。
それから2年後、私たちがその村の刺しゅうを博物館で展示するなんて誰が考えただろう。

彼は、大手の電器屋で勤めていた。
にもかかわらず古いもの、手仕事をこよなく愛していて、
おまけに写真もやっていた。
傷つきやすい、やわらかなものを内に秘めていた。

彼は生まれつき、眼に障害があった。
そのため、そっぽを向いた碧眼を隠すかのように、
いつもサングラスをかけていた。
金髪の髪を長く後ろで結んでいて、
その容貌のせいか、落ち着いた性格のためかひどく大人びてみえた。

彼の誕生日があったので、焼いたパンケーキを持ってきてくれたことがあった。
その年、私は31になった。ダンナは29だった。
「あなたは?」と尋ねると、
「もう、27になったよ。」とため息まじりに言ったのをよく覚えている。
思ったより、若かったことに驚いたのだ。

子どもや年下の者にやさしかった。
私よりひと回りも年下の、友人の彼女を妹のように愛し、
私の息子もとてもかわいがった。
展示会の帰りか、いつか夜の街を、
両側に長身の友人たちに手をとられて、
まるで空中を飛ぶようにして走りまわったことがあった。
遠くからその姿を見ていて、息子がうらやましかった。

私たちは、秋に1ヶ月以上も里帰りをしていたから、
もうしばらく彼に会わなかったことになる。
なおさら、その突然の出来事が響いてこなかった。

「そんなことすると知っていたら、箪笥の中に隠れて、
あんな馬鹿なことをするのを阻止してやったのに!」
友人は怒りをあらわにして言った。
彼の展示会の、祝福される日であるはずだった。


ちょうどその頃、ルーマニアではリーマンショックの影響で、
それまでの異常なほどの経済成長がとどまり、
不景気の兆候が見えはじめてきたところだった。
その頃に、仕事を失ったのは彼だけではなかった。
他の友人からも、仕事を辞めたがっていたということを漏らしていたらしい。

パソコンも独学で学んだ彼は、友人たちにホームページを作っていた。
彼自身のものは、トランシルヴァニアのフォークアートを紹介するというものだった。
ほんとうに彼がやりたかったことは、これだったのだろう。
待っているだけではだめだと私は言った。
彼はただ、つくり手たちが彼のページに取り上げてくれるよう
手を挙げてくるのを待っていただけだった。

どういう運命なのかは分からない。
アーラパタクとフォークアートと、
私はそのふたつを彼の意志を引き継いでいる形になっている。
もしかしたら、いっしょに同じ仕事をすることができたかもしれない、
そう思うと何か切ないものが込みあげてくる。

半年ほどの付き合いしかない。
おまけに異性なので、打ち明けた話もなかった。
分からないものは、結局は分からないままなのだ。


その日の帰りの列車の中で、とりとめもなく彼のことを考えていた。
真っ暗な車窓からの眺めには、何も映らなかった。
ただ時折、真っ暗な闇の奥から、
かすかな水のしぶきか、ほんの小降りの雪の欠片のようなものが落ちてきては、
目の前にちらついた。
もしかしたら、それはチャバの涙なのかもしれない。

















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Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(0)|trackback(0)|その他|2011-11-29_06:29|page top

ジトンとニコラ

私がはじめてジトンと出会ったのは、
8年前、ブダペスト郊外にあるグドゥッルーという町だった。

今から約100年前のグドゥッルーには、芸術家コロニーがあった。
当時その時代の研究をしていた私には、大いに縁のある土地でもあり、
そこで2月の寒い日に、アニメーション映画祭が開かれた。
会場は、グドゥッルーの芸術家の新しい溜まり場。

60年代から80年代までに作られた、
かの有名なパンノニアスタジオで作られた短編アニメーションを見るというもの。
会場に入ると、一番前の席に座っている
鮮やかな緑色の服を着たアジア系の女性がひときわ目を引いた。
印象づけたのは、輝くような彼女の存在感だった。
ハンガリー語を自在に操り、アジア系の女性には見られない堂々とした立ち振る舞い。
会場にいる芸術家などの誰よりも、まず彼女の姿に目をひかれた。

休憩に入ると、別室ではラードをたっぷりぬったパンやお茶などが出された。
ダンナと話をしながら、飲み食いしていると、
「ねえ、彼女は何人?」とダンナに向かって話しかけたのは彼女だった。
直感的に日本人ではないと悟った。
私の知る限り、見慣れないアジア系の人に一人で話しかけるということをまずしなかった。
「ハンガリー語ができるよ。」とダンナが言う。
こうして彼女は台湾人であること、彼女の名を知ることとなった。

ジトンは言う。
「あなたと同じよ。私にも子どもがいるの。」
私のお腹はその頃、ずいぶん大きくなっていた。
彼女のは、まだ言われて見ても分からないほどに小さかった。
そして彼女は、もうすぐ10年暮らしていたハンガリーを離れ、
子どもを出産してから日本に行くことになるのだと語った。
彼女の夫はドイツ人で、日本でロボットの研究をしているという。

彼女はというと、ハンガリーの国立人形劇団で働いていた。
日本人の女の子の持つような甘さはなく、
理知的な表情の中に無邪気ないたずら心を忍ばせていた。
その日の一番の収穫は、彼女に出会ったことだった。


やがて私はルーマニアで出産をした後、家族とともに日本へ帰った。
日本の生活に慣れるのに精一杯だったころ、彼女から電話があった。
彼女はハンガリーで出産してから、ご主人のいる関西に来ていた。
私のいる九州と関西は海を隔てていることすら知らない様子だった。

彼女は日本で子育てをしている。
台湾人の母親とドイツ人の父親をもち、
英語で会話する家庭環境のもとで日本に暮らしている。
それが、ニコラ少年の置かれた不思議な環境だった。


私たちが再会したのは、兵庫県の山手の町だった。
大きなベビーカーを押して、ジトンは現れた。
色白の細面の顔に、大きなまつげをしばたたかせる子どもがニコラだった。
私が日本語で話しかけるのが聞こえないかのように、彼は無反応だった。

「なんだか堅苦しそうにみえるけれど、
日本人だって面白いわ。」
それは彼女の本音の意見だった。
「私の三味線のお師匠さんは80近くのお婆さんなんだけれど、
お稽古が終わるとワインを出してね、一緒に飲もうなんていうの。
ふだんは飲まないんだけど、と恥ずかしそうに口にしながら・・。」

彼女は、言葉の通じない異国で子育てをする外国人だった。
外見はアジア人そのものだったが、
青春時代をハンガリーで過ごした彼女の中身はヨーロッパ人のようだ。
そして日本文化を彼女なりに吸収しようとする姿は、美しかった。


家族を連れて、彼女の家に泊まったこともある。
夜にご主人さんが外国人の客を連れてきて、いっしょに食事をした。
大阪でも悪名高い、西成区で手に入れたという三味線を見せてくれる。
「もちろん、強そうなボディーガードを連れて行ったわ。
どこかの橋の近くに、何でも売っている市があって、
そこで見るからに恐そうな男らが物を売っているの。」

彼女は、その三味線の腕を披露した。
「三味線はね、ふつうは弾き語りしないものなのだけど・・・。」
と英語で前置きを入れて、つま弾きはじめる。
私の故郷の民謡、シャンシャン馬道中だった。
三味線の和音の響きと、低く通った美しい声がいっしょになって心地よく漂った。
落とした照明の中に、彼女の姿がうつくしく浮かび上がった。


一度だけ、私の九州の私の実家に遊びに来たことがある。
台所で料理をしながら話をしていた。
「私のおじいさんは、日本の砂糖工場の社長だった。
従業員用に日本式の住宅が建てられて、私たちもそこで育ったわ。
お父さんは生け花の師匠で、詩を書いたりしていた。いわゆる芸術家ね。」

「そんな日本びいきの家庭で育ちながらも、大学では英語を専攻して、
副専攻語はみんな日本語を選んでいたのに、私だけ選ばなかった。
日本語なんて勉強することないと思っていたのに、
人生なんて分からないものね。今、私はここにすんでいる。」


ニコラは日本の幼稚園に入り、子どもたちのアイドルとなっていた。
家の中できゃしゃな体ととろけるような笑顔をふりまき走り回っている。
言葉ができないからか、意思をはっきり見せず、
無色透明にどこにでもなじむ、風のような子どもだった。

ジトンが言った。
「ある日、ニコラがラブレターを持ってきたの。
年上の幼稚園の女の子からで、もうびっくりしたわ。
こんなとこにずっといたら、どうなってしまうかと思った。」


私たちは3年間を日本で過ごした後に、トランシルヴァニアへと移った。
そしてジトン一家はというと4年の後に、台湾へと引越しをした。
ご主人が台湾の大学で働きはじめたため、ジトンも故郷へ戻ることができたのだ。
故郷で元気にしているだろうと思っていたら、
彼女からは鬱だという思いがけない返事だった。
ニコラはようやく、母国語の発揮できる環境に落ち着いたというのに。


二年前、ジトンたちとここトランシルヴァニアで再会した。
ドイツ、ハンガリー、そしてトランシルヴァニアへとはるばる車でやってきた。
ドボイの村で過ごしたことは忘れられない。
冗談半分か本気なのか、ドボイに家を買おうと思って調べたこともあった。

5才になったニコラは、少年らしい顔になっていた。
英語とハンガリー語、日本語を交えながら
ふたりでおしゃべりをしたことがある。
彼が生まれ育った環境で、
その土地土地の言葉やさまざまなものを吸収した結果、
風のようにどこにでもなじみ、少ない語彙で意思伝達する術をすでに学んでいた。


ジトンとニコラ、
ふたりはアジアとヨーロッパの二つの大陸、
台湾とドイツの二つの国を股にかけて生活をしている。
今現在はハンガリーに来ている彼らとの再会は、来年になるだろうか。
まだ見ぬ台湾という国へ、二人を訪ねに行くことを夢に見ている。

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comments(2)|trackback(0)|その他|2011-11-26_17:56|page top

冬のはじまり

冬は足音を忍ばせて、やってきた。
季節外れの濃い霧が、朝から晩まですっぽりと街を包みこむ。
湿った空気はからだの中を少しずつ凍りつかせていくようで、
すこし息苦しかった。

そんな日が、何日もつづいた。
ある朝、目が覚めると、
いつもの風景が真っ白に縁取りされているのに気がついた。
木々の細く入り組んだ枝の一本一本、
葉っぱの一枚一枚が丹念に描かれた絵画のようだった。
上から降ってくる雪によってではなく、
大気中の水分があらゆるものを一気に凍り固まらせた、そんな感じ。

その日は久しぶりに青空がよみがえり、
まぶしいほどに太陽が強く照りつけた。
そうして、みるみるうちにあの美しい白い絵模様を溶かしてしまう。
木の枝から、冷たいしずくがとめどもなく落ちてくる。

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日陰では、氷の粒がしっかりと張りついているが、
消えてしまうのも時間の問題だろう。

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キッチンの窓から見える、枝垂れ松。
黄色いとがった葉を一面にまとったその姿は、
毛皮をかぶった動物のようだ。
雨のようにぽたぽたと落ちる音とうららかな陽気は、
まるで春のはじまりを思い出させる。

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季節のはじまりの雪景色が、
これほどに悦ばしく感じられるのはどうしてだろう。
ふだん見慣れたものが新鮮で、
いつまでもこの純白の景色が残ってほしいと願う。

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もうすぐ11月も終わると、
雪と氷の季節がいよいよやってくる。

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Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(2)|trackback(0)|自然、動物|2011-11-24_20:59|page top

アールコシュの芸術の日

11月のある日、招待状がとどいた。
週末にアールコシュの屋敷で、一日中コンサートが開かれる。
食べ物や飲み物、子どものための工作教室などもあり、
充実したプログラムが盛りだくさんと書かれている。

朝10時に中心の広場からバスが出発。
町から6キロ離れたアールコシュ村までは、
すでに色を失った野原を右へ左へとくねり進んでいく。
二匹のライオンが両側で番をしている石造りの門が見えたなら、
そこがお屋敷への入り口である。

天に届きそうなほどの細長いポプラの木立を越えると、
お屋敷の前へと出る。
もともとハンガリーの貴族の持ち物だったのが、
共産主義時代に国有地として没収され、貴族は国外へと追い出されてしまった。
その後80年代には、あの悪名高いチャウセスク大統領の私有地のようにして使われた。

お屋敷の庭へやってくる。
大きな馬車にあふれるばかりの野菜が積み上げられ、
その周りには古いアイロンやら陶器やら布類がちょうどきれいに並べられているところだった。
後々訪ねようと思っていた、アールコシュ在住の友人ゾリの野外展示会。

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彼は収集活動をはじめてから、20年を過ぎるという
ベテランでもあり、アマチュアでもある収集家。
職業として民俗学をやっているものよりも、
ずっと熱心でその心によどみがない。
何かのイベントがあるたびに、こうして自分の収集物を持ち出してはお披露目している。

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これといった定職はなく、建設や庭仕事、村の産物ハチミツクッキーの販売など、
常にいろいろな場所に引っ張りだこである。

彼に会わないといけないと思い、すでに一年近くが過ぎた。
というのも、前年のアーラパタクの展示会で、彼からも収集物をいくつか借りたのだが、
訳あってそれを汚してしまったのだ。
ダンナは彼ならこんなこと気にしやしない、と高をくくっていた。
おそるおそる例のクロスを広げて見せると、
「ああ。それか。」と言ったきり、本のにこやかな顔に戻っていた。
これで、一年間の肩の荷がやっとおりた。

「木から落ちたリンゴだよ。」と道行く人たちに声をかけては、
かごいっぱいのリンゴを差し出す。
生粋の村人である彼は、おおらかで気前がよい。
真っ赤に色づいたリンゴをかじると、
甘酸っぱい香りと甘い汁がはじけた。

コンサートがはじまるまでの間、
子どもたちのための工作教室がひらかれる。
こしょうやシナモン、月桂樹の葉、かぼちゃの種に豆類。
自然のものを使った工作は、いかにもトランシルヴァニアらしい。

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ダンボールの紙にのりをはって、麻の布を貼りつける。
そこにのりを貼ってから、木の実や種などを使って絵を描いていくというもの。
じっと立っているだけでも凍えてきそうなのに、
子どもたちは無心で小さな手を動かしている。

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しばらくするとアナウンスが流れ、あたたかな屋敷の中へと入る。
この演奏会は、国営ルーマニアラジオのクラッシック局のプロデューサーが企画したもの。
招かれる演奏者のレベルも高く、プログラムも充実している。
ヴァイオリンとピアノのソナタがはじまった。
普通のステージとは違って演奏者との距離が近く、
寛いだ空間で音楽を聴くことができる。

コンサートが終わると、再び庭の会場へと戻り時間をつぶすこととなる。
日本人なら飽きてとうに帰ってしまうところだが、
こういう時間の過ごし方がこの土地の人たちらしい。

落ち葉でいっぱいの庭を、散策することにした。
お屋敷の離れにある小さな建物は、セントケレスト家の礼拝堂であった。
ここ近年になってようやく一般に公開され、
歌曲コンサートなどに使われている。

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共産主義時代に没収された貴族の邸宅は、
当局の者たちが来る前に、まず地元の村人たちの手で無残に略奪されることとなった。
だから今の丁度類は、共産主義時代に新しく作られたもので、
作りものの屋敷という感が拭えない。
ゾリの収集物の中にも、もともとはこの家のものだった品もあるという。

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落葉樹が、かろうじて黄色く色づいた葉を枝に残していた。
池や果樹園などを有する土地は広いものの、十分には管理されていない。
黒くにごった池の水もまた、物憂げな晩秋の色をそのままに表しているようだ。

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やがて息子は、学校の同級生の姿を見つけた。
男の子たちの群れの中に混ざり、皆で池に浮かんでいたボートに乗り込んだ。
おぼつかない手つきで舟をこぐ少年と、当てもない航海に繰り出す子どもたち。

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少年たちはゆっくりと岸を離れていった。
落ち葉ふる黒くよどんだ池は、あと一ヶ月もすれば真っ白な氷に変わるだろう。
水に映し出される最後の秋の香りを味わいながら、
子どもたちの乗る舟の帰りを待っていた。

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Genre:海外情報

comments(2)|trackback(0)|イベント|2011-11-23_15:51|page top

オジュドラのダイヤモンド

無機質な灰色の空から
弱々しい光りが差し込んでいた。
ただでさえ寒い日なのに、
ときおり吹いてくる風に身震いがする。
小さな村の外れの風景は、ますます心細さを煽るばかり。

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私たちは、こんな寒い週末の日にオジュドラという村を目指していた。
その村の近くの川原には、「オジュドラのダイヤモンド」と呼ばれる石があるそうだ。
もちろんダイヤモンドといっても本物ではなく、水晶のことだ。
そんな宝探しじみた気持ちでバスに飛び乗り、
こうしてはるばるケーズディ地方までやってきた。

町外れでヒッチハイクを試みたはいいものの、
運転手は村の名前を間違えて別方向に連れて行った。
こうして私たちは目指す村から遠ざかってしまった。
5,6キロ歩いて分岐点へと引き返して、
さらに先へ進まなければならない。

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ほんとうに村までたどり着けるのだろうかという不安な気持ちを抱きながら、
とにかく歩くしかない。
寒さを見越して、上から下までいっぱいに着こんできた。
息子が根を上げないかどうかが心配される。

二つ目の村で道を尋ねると、
左手に曲がるとオジュドラ方面であるという。
村の中心で足をとめ、しばらく車を待つ。
運がよくやってきた車には、運転手のおじいさん一人しか乗っていないようだ。
ヒッチハイク成功。
あたたかい車の中でほうっと息をつき、
冷えた手をこすり合わせた。

「知り合いでも訪ねにいくのかね?」
こんな寒い中を歩く人も珍しいらしく、おじいさんが尋ねる。
ダンナは、私たちがダイヤモンドを探しにきたことを告げた。
「あれは、雨が降った後が見つかりやすいそうだ。」
おじさんは言った。

村の中心に着くと、旅行者向けの看板が立っていた。
それによると、村を通り過ぎて山の中に入ったところにあるそうだ。
青い十字のマークの道案内に沿って、私たちは村の奥へ奥へと進んだ。

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かつては美しかったであろう古い民家が崩れ落ち、
朽ち果てていくのを見るのは哀しいことだ。
割れた窓ガラスの中に、
家を守るようにして張りつけられた刺しゅうのクロスが痛々しい。

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歩いていくうちに大きな村であることが分かる。
青い目印は、時に右に左にと場所を替え、
木や鉄柱へと移り変わりながら、
私たちを宝のありかへと案内してくれる。

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家はやがて途絶えた。
寒空の下、山並みが青々と色を投げかけて浮かんでいる。

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昼をとうに過ぎてから、ようやく太陽の光らしいものが届く。
ずっと歩いてきたせいもあり、ぐるぐる巻きにしたマフラーを取った。

道の端を小川が流れている。
小道はその小川をとびこえて、さらに先へとつづいていた。
光りが川の流れを照らすと、思わぬまぶしさに目がくらんだ。
冷たい流れの表面には、
まるで屈折する光りのように薄い氷が張っていた。
ダイヤモンドにも負けない、その輝き。

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いくら走りとびをしてみても、とうてい超えられそうにもない川の幅だった。
大きな石をいくつか並べて、飛び石のようにして渡ると、
ひっそりと寂しい森の入り口が待っていた。

落ち葉をいっぱいに落とした森の道は、
のぼり道となって先へと続いている。
土が所どころ削り取られたようにして、
小さな小石の形をあらわにしていた。

土色の地面を目を皿のようにして、
米粒のような小さな輝きを逃すまいと凝視する。
この気の遠くなるような仕事にしばらく熱中をしたものの、
すぐに諦めの色が出てきた。
その時、ダンナが「あった。」と叫んだ。

その手のひらを観察すると、
米粒というよりゴマ粒のように小さな透明の欠片が確認できた。
こすって見せると、
四方八方がきれいにカットされた宝石そのもの。

この発見で、私たちの士気も一気に上がった。
崖の小石をほじったり、落ち葉を払ったりして探していると、
日陰のために体がじんと冷え込んでくる。

やがて、「見つけた。」という息子の声が響いた。
満面に笑顔が広がると、石よりもそちらの方が嬉しかった。
その小さな手の中には、先ほどのより大きな透明の石があった。

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こうして小粒の宝をふたつ袋にしまうと、、
元の道へと引き返した。
もう日はオレンジ色を帯びて、
日暮れ前の様相をしめしていた。
11月ともなると、一日が過ぎていくのがあっという間だ。

元の長い道のりのことを想い、うんざりとしていると
後ろから馬車がやってきて止まった。
山で木を刈ってきたおじさんが、
「さあ、乗りなさい。」と自分の腰かけていた席を譲った。

ここで大丈夫と私は木材の上に座った。
男たち三人がいすの上に腰を下ろすと、
おじさんは馬車を走らせる。
毛並みの美しい茶色い馬は、
時にカッポカッポとやさしく音をこだまさせ、
時に激しく地面を叩くようにして駆けていく。
移り変わる家並みをぼんやり眺めながら、
その音に心地よく耳を傾けていた。

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おじさんは言う。
「あそこの山沿いのバイクのレース場を見てごらん。
あれを見なきゃ、ここに来た価値はないよ。」
「あの家を写真に撮りなさい。売りに出ているよ。」
村の人たちが誇りに思うものは、
私たちの価値観とはすこし違うようだ。

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思わぬ馬車の旅を味わった後は、日が暮れない内に足を急がせる。
村の中心でヒッチハイクをすると、すぐに車が止まってくれた。
二人の少年がタバコをいっぱいにふかして、煙たかった。
町へ行きますかと尋ねると、
タバコをくわえたまま素直そうな瞳をこちらに向けてうなづいた。

車を降りるときにお金を差し出すと、こういった。
「その子にチョコレートでも買ってあげてください。」
こうして幸運がつながって、
不可能のように思えた道のりも魔法のじゅうたんに乗ったかのように、
難なく進むことができた。

いったい美しいものの価値は誰が決めるのだろう。
滅多に手に入らないもの、高いお金で取引きされるものを
私たちは疑うこともなしに良きものと決めているのではないだろうか。
その小さなダイヤモンドの輝きは、
いつでも寒い一日の冒険を思い出させてくれる。

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comments(6)|trackback(0)|自然、動物|2011-11-17_00:00|page top

秋の終わりのリンゴ狩り

まだ外がうす暗いうちに跳ね起きた。
8時に村へと出発すると話してあったので、
あわててアパートの階段を駆けおりる。
ボティの赤い車を探してみたものの、どこにも見当たらない。
戻ってアパートの階段を登り、
念のため扉を叩いたがやはり反応はない。
きっと、もう行ってしまったのだ。

楽しみにしていた息子は、今にも泣きそうな顔をしていた。
部屋に戻り、ふとパソコンの時計を見ると、まだ7時を過ぎたばかり。
そして、はたと気がついた。
今日から冬時間に切り替わったのだ。

ヨーロッパでは、4月から10月までは夏時間、11月から3月までは冬時間を採用している。
その日は10月最後の日で日曜日だったから
昨日よりも1時間ずれて日常が回っている。

悠々と支度をして8時前に家を出ると、
黒い巻き毛を長く伸ばした長身の男がエンジンをかけているところだった。
アパートの古い住人ボティだ。
買ったばかりの村の土地で、
今年はじめて収穫を迎えるから手伝いに呼ばれていたのだ。

朝もやが立ちこめる広々とした平野を、車は走る。
もうジャガイモの収穫もとうに終わっている。
県道から左に曲がり、丘のふもとに横たわる村はアンジャロシュ。
「天使の」という意味の、可愛らしい名前。

村の終わりにある土地に到着して車を降りると、
見渡す限りつづく庭には真っ白な霜がふっていた。
リンゴの木々の合間から弱々しい朝のひかりが差しこむと、
やわらかな曲線を描いた丘は銀色にかがやいた。

2011halottaknapja 034

丘をのぼり、くだりしながらもまだその全貌は見渡せない。
途中で区切られた柵をこえて、銀色の原っぱの中を夢中になってどんどん進んでいく。
ふと気がつくと、朝露で靴がぐっしょりとぬれていた。

2011halottaknapja 043

何でもトランシルヴァニアには500もの種類のリンゴがあるそうで、
木の枝ぶりや、リンゴの色かたちを見ているだけでも飽きることはない。
お皿リンゴに、皮リンゴ、レモンリンゴ、バターリンゴ、ジプシーリンゴ・・・など
名前を聞いて、その形や味が想像できるのが面白い。

2011halottaknapja 025

やがて続々と助っ人たちがやってきた。
果ては20代の若者から、70代のおばあちゃんまで、
ボティの家族や親戚、友人を合わせて20名ほどにもなる。

まず落ちたリンゴを拾うことから取りかかった。
赤いナイロン袋を手渡され、バケツにリンゴを集めてはその袋をいっぱいにしていく。
傷んだリンゴは絞る工場へ持っていって、リンゴジュースになる。

2011halottaknapja 048

リンゴ拾いは、簡単そうだが意外に骨が折れる作業。
何度もかがむために、腰に負担がかかるようだ。
すべて拾い終えると、今度は木になったリンゴを大切にもいでいく。
冬リンゴはもいでから、冬の間ずっと保管するので、
傷がついていたりしてはいけない。
時に木によじ登り、時にはしごを使って摘み、
大きく太った立派なリンゴでバケツがすぐにいっぱいになった。

2011halottaknapja 050

小さな子どもが向こうから現れた。
真っ白い顔にかかった眼鏡が、瞳をくるくると大きく見せている。
近づくに連れて、家の近所の公園でたびたび出会う男の子であることが分かった。
ミオーカは不思議と息子のことが気に入ったようすで、
息子の跡をついて回るほどだったという。
この子の両親はプロの踊り手で、息子のクラスでも民俗舞踊を教えている。

2011halottaknapja 058

広大なリンゴ園では、ひとつひとつもいでいくのは時間がかかる。
そこで大きな網を広げて持ち、
誰かがよじ登ってリンゴを振るい落とすという新しい手段が考え出された。
ざっと雨のようにリンゴが降ってくると、
トランポリンのようにはじけては一箇所により集まった。

2011halottaknapja 053

カラーカという言葉がある。
共同作業のことで、村に住むには欠かせない要素だ。
家を建てるのにも、農作業をするのにも、
豚の解体をするのにも、村の人々はたびたび寄り集まって仕事をする。
仕事が簡単になるのは言うまでもないが、
さらに和気藹々と作業をすることで、いつしか仕事の大変ささえ忘れてしまう。

リンゴ摘みにおいては、
木のてっぺんにある一番美味しいのを味見できるというのも特権である。

2011halottaknapja 065

こうして日が暮れるまで、リンゴ摘み、より分け作業は続いた。
煮炊きをしていた人たちがジャガイモの煮込みを持ってくると、
遅い昼ごはんがはじまった。
主人であるボティの40歳の誕生日ケーキが切り分けられる。
知らない人たちとの出会いやあたたかいもてなしで、
満たされていくのがお腹ばかりでないことに気がついた。

2011halottaknapja 079

これから真っ白な雪と氷に閉ざされるトランシルヴァニア地方では、
リンゴの燃えるような赤は最後に見られる秋の色。
甘酸っぱい香りとその色彩は、
長く辛い冬における清涼剤のようなもの。

Dobolyi alma 012

リンゴ畑がふたたび闇に包まれると、
やがて一筋の白い光りがぼんやりと空を照らしはじめた。
私たちは、、一日の労働で疲れた体を横たえるために家に帰った。

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comments(2)|trackback(0)|自然、動物|2011-11-09_22:51|page top

コロンドの花模様

真っ青な青空とはうらはらに、
手足の先を凍らせる冷たい朝だった。
裏に綿がついている冬靴を履いていたが、
それでも指先がかじかんでいる。
息子はローラースケートに履き替えた。
地面に接しない分、足があたたかいという。

私たちは帰りのバスの時間を調べに、
村の中心まで砂利道を歩いていた。
家並みの向こうには、茶色く秋色をした丘が見渡せる。

Kolond 203

コロンドは陶芸で有名な村だ。
ここ20年ほどは、村の景観はすっかり変わり、
お土産ものの村と化してしまった。
陶芸製品ばかりでなく、まるでガラクタ市のように
県道に沿って商店がひしめきあっている。
「もうコロンドでは陶芸を作ってなんかいないよ。
どうせ中国かどこかで作らせて、そこで売っているだけさ。」
嘘か本当かも知れぬうわさを聞いたことがある。
それだけに、昨夜のベンツィおじさんの仕事を見たことは発見だった。

せっかくだから他の窯も見てみたいと思って聞いてみると、
その先の通りに有名な職人さんがいるとの話。
門が開けっ放しの家の庭に入っていくと、
庭のあちらこちらに美しい陶器が飾られている。
納屋の壁に塗りこめてある、いかにも年代物のタイルが目を引いた。

Kolond 212

残念ながら、家の主は留守のようだ。
後ろ髪ひかれながらも、そのまま大通りへ向かって歩みを進めた。

ルーマニアで一番ハンガリー人率の高いといわれるウドヴァルヘイ地方であるから、
ハンガリー人観光客の通り道でもある。
村ではあるが、観光案内所まであるのに驚いた。
中に入り、めがねをかけた若い男にセントジュルジ行きのバスを尋ねる。
「そこは、確か・・。」と電話かパソコンで調べると思いきや、
うろ覚えのように「10時半にバスがくると思いますよ。」と掃除の手を休めて言った。

バス停はちょうど、通りをはさんで反対側にあった。
待てども待てでも、バスはこない。
仕方なく、通りを行く人に尋ねると、
次のバスまであと1時間ほどもあるという返事。

Kolond 216

まだ帰るには早いかと思っていたところだったので、
村まで引き返す。
先ほどのアトリエは相変わらず留守のようだったので、
村のさらに奥へと進むことにした。
「陶芸の職人さんを探しているのですが。」というと、
「この通りを登っていったところにあるわよ。」とおばあさんが言う。

長い坂道が続いていた。
ちょうど道路が舗装されるところらしく、
道路工事のおじさんたちが途中にたむろしていた。
そこで尋ねると、「イムレおじさん」という名前を聞くことができた。

やっとのことで家に着くと、
奥の小さな小屋で人の気配がするので戸をたたいてみる。
暖房のきいた日当たりのよい作業場では、
ちょうどイムレさん夫妻が作業をしているところだった。

Kolond 218

仕事の手を休めずに、にこやかにおしゃべりで迎えてくれる。
やがて夫婦と息子さん夫婦も手伝いながら、
奥の窯から焼き物を取り出す作業がはじまった。
窯の上には、陶器の破片などがしっかりとふたをしている。
ガラガラガラ・・と陶器がぶつかり合い、はじける音が聞こえてきた。
焼きあがるたびに、こうして破片をすべて落として、
窯のふたを開けないといけない。

Kolond 257

村では男性が陶芸をして、女性が絵付けをするという分担がされているようだ。
「花をつける」という言葉が表すように、その模様は花が多い。
一年の半分は花の咲かない北国であるため、
花で飾ることを心から欲しているせいなのだろうか。

Kolond 343

そうしているうちに、バスの時間は過ぎてしまった。
ここトランシルヴァニアの人たちと過ごしていると、
予定というものがあまり当てにならないということを身にしみて思わされる。
そういう余計な事で縛られる代わりに、
予定外の驚きや人の温かさに助けられることもしばしばだ。

帰り道に、朝から何度も訪ねては引きかえしていたアトリエに寄ると、
もう家の主が帰っているようだ。
離れにある小さな部屋を見せてもらう。
コロンドは20世紀はじめまで、素朴な素焼きの焼き物を作っていた。
それからよその村が陶芸作りをやめてしまうと、
今度は周りの村の型を作りはじめた。
やがてザクセン人の青いペイントも取り入れ、
それぞれに装飾が違う40もの窯ができたという。
つまりトランシルヴァニアの陶芸を一堂に集めたのが、コロンドである。

Kolond 370

マグディさんの居間に案内してもらった。
電灯の光りを浴びて、焼き物がまるで宝石のようにきらきらと輝いた。
土色の深い色合いに、密集した花模様が浮かびあがる。

Kolond 374

マグディおばさんは、言う。
「コロンドはかつての素晴らしい焼き物の文化を失いつつあるわ。
作ることをやめて、皆がより簡単な商売の方へ走ってしまった。」
あの大通りに並び立つみやげ物の列を見るだけで、
山と積み上げられたガラクタを見るだけで、
村に対する興味が冷めてしまうのは当然だろう。

Kolond 390

ろくろで丁寧に形を作り、
自家製の窯でじっくりと焼き作っている人もいれば、
大量生産できるように型にはめて作る人もいる。

両者の違いは、正しい知識がないと分からない。
今の時代に大切なことは、
私たち消費者が物に対する正しい知識と価値観を養うことなのではないか。
ひいては、それが本物の作り手を生み出し、守っていくことにもつながる。

Kolond 383

フォークアートがハンガリーではじめて、
村以外の人によって発見されたのは19世紀終わりの頃だった。
都市で生まれ育ち、華やかで洗練された芸術を見慣れた人たちを驚かせたのは、
この土くさい素朴な形や色だった。
何よりお金にかえることのできない時間やたくさんの手間を要する手仕事であり、
その計算のない純真な創作魂であった。

Kolond 376

コロンドの陶芸家たちの家を見ても、
実生活で使われて土や埃をあびた作品や
自分の子どもが親に作った思い出の品が、
どんなに飾り立てられた店の品よりも美しいことに気がつく。

フォークアートの発見から100年を過ぎた今、
もう一度作り手たちもフォークアートとは何であったかということを
再確認する時に来ているのではないだろうか。

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comments(0)|trackback(0)|文化、習慣|2011-11-06_15:37|page top

コロンドの灰色のアトリエ

薄暗い道をあるいて連れてきてもらったのは、
村に住む陶芸職人の家。
大きな帽子にスーツの肩をいからせて堂々と、
納屋のかたちをした奥のアトリエに歩んでいくガーボル。
知人のベンツィおじさんに表から声をかける。

「もう、仕事は終わりだよ。」そんなやり取りが聞こえたので、
無理をしなくていいと彼に伝える。
それでも何度か頼んでいる様子で、
ようやく納屋の中に明かりが灯され、私たちは中へ通された。

ベンツィおじさんは、口ひげをたくわえた恰幅のいい男だった。
不機嫌そうな表情は、仕事を終えたあとの疲れのせいなのか、
このおじさんの習慣なのか分からなかった。

小さな部屋に入ると、暖かい空気が体を包みこむ。
そして、部屋一面にきれいに並べられた灰色の器が目にとびこんできた。
「これは、キャベツ煮の鍋だよ。」とガーボルが教えてくれる。
トランシルヴァニアで古くから食されるキャベツから名前をとったのであるが、
実は何を料理してもいい。

壷のかたちをした鍋というのは、
たとえば民話の挿絵やアニメーションでもみられる。
有名な「石スープ」というお話では、
とんちの利く旅の男がこの壷のなかに石を入れてスープを作って見せるというもの。
途中で「味が足りない」などと言っては、
村のおばあさんにいろいろな食材をもたせて、ついには美味しいスープをこしらえてしまう。

Kolond 040

奥の部屋には立派な窯もあった。
この村では何でも40の窯元があるらしく、
それぞれの家庭に手づくりの窯がある。

ベンツィおじさんはふたたび仕事机に腰を下ろして、
灰色の泥のかたまりをまるめ、激しく手で打ちはじめた。
コンクリートの壁も、おじさんの服も、
そして泥の飛んだテーブルもすべてが灰色。

Kolond 064

足で勢いよくろくろを回しながら、
泥のかたまりを平たく押さえつけたり、
力をこめて引っ張って棒のように伸ばしたりした。
おじさんの手にかかっては、
魔法にかけられたように変形自在となる。

Kolond 085

細長い先っぽを糸で切り取ると、
それが水差しの先っぽになる。
いったん長い筒を壊してしまってから、
また新しく生命を吹き込む。

Kolond 087

壷のような形がみるみる内に丸みを帯びていき、
すがたが整えてられていくと、先ほどの口の部分を上にのせて水差しの形ができる。
首のところに白い塗料を塗ったあと、
かるく指で波型に線を入れていくだけ。

Kolond 128

コロンドの村で見るお土産品は、
どれも装飾的で華やかなのに対して、
こちらはベンツィおじさんその人そのもののように、
がっしりとした素朴な味わいである。

Kolond 134

おじさんの創作魂に火がついたのか、
それからもろくろは回転を止まることを知らない。
力こぶのできそうなたくましい両腕からは、
時に力強く泥がひねり出され、
時に神経質なほどの細やかな手が加えられて、
灰色の物体はいつしか私たちが何千年と培ってきた道具としての形を備えていく。

Kolond 168

目の前で格闘している物体から、
不意におじさんの目はこちらへと注がれる。
彼独特のポーズが決まる。
作業の間はほとんど口を利かないのだが、
その強い眼が雄弁にも作品の美しさを讃えているようである。

Kolond 173

壷や水差し、皿など一通りの作品を延々と作り上げて、
やがてろくろは回転を止めた。
納屋を改造したアトリエでやがて焼かれた壷は、
化学変化を起こして灰色の器にさらなる彩を与える。

Kolond 031

トランシルヴァニアの民陶は、
おそらく世界的には有名ではないだろう。
際立った特徴のないただの器かもしれない。
それでも、その素朴な大味な形や色が、
ここで人々が育ててきた文化のひとつであり、
たとえば「キャベツ煮」という名前ひとつとっても、
彼らの生活のぬくもりを生々しく伝える何かであるに違いない。

陶芸のアトリエで過ごしたその晩の興奮は、
空気の冷たい夜道を歩きながらも覚めやらなかった。

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comments(2)|trackback(0)|文化、習慣|2011-11-05_01:31|page top

コロンドの夜

太陽は西に傾きはじめている。
村のバス停へ歩いていくと、
帽子をかぶったおじいさんがひとり腰掛けていた。
「次のバスはいつ来ますか?」と尋ねると、
「ああ、次は5時過ぎだって誰かが言ったよ。」
セーケイ人らしくひねりの利いたアクセントが耳を打つ。

背筋をしっかり伸ばし、ステッキを片手にしたおじいさんは、
同じコロンドで降りて、そこからさらに7キロ先の隣村へ帰るところだという。
「歩いては行かないよ。
村は山のてっぺんにあるのだから、ヒッチハイクをしてみるつもりさ。
他はなんてことないけれど、ひざにもうガタがきているからね。」
おじいさんの年齢を聞くと、83歳だという。
とてもそうは見えないと思った通りのことを述べると、
青い瞳がしずかに微笑んだ。

マイクロバスは、私たち3人と、
ほうき作りのジプシーの男を乗せて出発した。
しばらく行って、大通り沿いに
果てしない店の列が並ぶようになると、そこはもうコロンドの中心である。
バスを降りると、右も左も同じような店ばかり並ぶ真っ只中にいた。

「どこに行ったらいいか、分かるのかい?」おじいさんは心配そうに聞く。
「ええ、迎えにきてくれることになっているんです。」
お別れをしたあと、
おじいさんがゆっくりとした足取りで車道を渡っていくのを見守っていた。

村なら通りの名前さえ聞けば、探し当てられる自信はあった。
電話をかけてみると、
「もうすぐ、黒い車が着くので待っていてください。」
車で行かなければならないほど遠くだったのかと、申し訳ない気持ちになる。
すぐに、ピカピカの高級車が私たちの真横に止まった。

車に乗り込んで、運転席の男の手に挨拶をする。
「私が、ガーボル・ガーボルだよ。」
黒い車に、つばの広い黒い帽子、
洋服も全身が黒ずくめ。
電話で話していた印象どおり好感のもてる人であるのを見て、
ほっと安心した。

車は5分ほどで、砂利道の通りに入って
ある家の前で止まった。
「ここが、私の家ですよ。」
コンクリートそのままのまだ新築の家だった。
階段の途中に、背の高いふたりの青年が立っていた。
「私の息子たちです。」

家のソファーには、花柄のスカートに身を包んだ女性が座っていた。
「私の妻、ジュジャです。」
こうしてガーボル一家の居間のソファーに腰を下ろし、
日本の土産物を渡してから、くつろがせてもらった。

主人ガーボルは、これまで会ったジプシーの中でも
一番頭が切れそうな印象を受けた。
「日本では、我々ジプシーのことをなんと呼んでいるのかね?」
日本では英語のエジプシャンを語源とするジプシーという言葉が使われ、
それに最近ロマという呼び名が公式の言葉として入ってきたという事情を話した。

「これまでガーボル・ジプシーと会ったことはありますか?」
姓はみなガーボル。
つばの大きい帽子をかぶり、ロマ語をあやつり、
商人や板金職人として働くお金持ちのジプシー。
内輪意識が強く、決してよそ者と交わらない。

私の知っているものに、ウルクーのジプシーと結婚しているものがいることを話すと、
「そいつはもうガーボルではないね。
そうなったらもう勘当され、親戚一同からも縁を切られるに違いない。」
ガーボルであることは、血を濃く保つことをも意味するようだ。
彼らは、あらゆるジプシーの中でも最上の階級意識を持っている。

私の知っているガーボル・ジプシーと同様に、
彼もまた敬虔なアドベント派のキリスト教徒である。
ロマ語で聖書は読めず、お説教もハンガリー語のため
ハンガリー語を解するのも完璧に近い。

「私たちは、板金職人だよ。
そして時には、ああいうお鍋などを売ったりもする。」
指差すほうを見ると、
棚の上にぴかぴかに光る赤いお鍋がきれいに積み重なれて並んでいた。
「ここルーマニア国内だけじゃなく、
ドイツやオーストリア、ユーゴスラビアなどにも行商に行くんだよ。
その土地土地の言葉も少しはできる。」

商売に関しての彼らの嗅覚は、確かなものらしい。
話題が日本に移ったあとも、
「日本では金はいくらか?」
「銀のアクセサリーを売っている市はあるか?」
などと息子たちが興味津々で聞いてくる。
血縁関係が強く、商売上手で保守的、宗教に敬虔な彼らは、
私の中でユダヤ人のイメージと結びつく。

コロンドは陶芸の村として有名なところ。
いつからここにジプシーたちが住むようになったのだろう。
たくさんのコロンド名産の焼き物を袋に入れて、
ガーボルは暗くならないうちにと、
近所の窯へと私たちを連れて行ってくれた。

暗い夜道で、ロマ語の会話をするものがガーボル・ジプシーで、
ハンガリー語で話すのが定住ジプシー、
つまり一般的なジプシーであることが分かった。
「彼らは、しつけがなっていない。
まったく我々とは違うんだよ。」

Kolond 025

若いお嫁さんは無言で、
食事の支度をしたりベッドの用意で忙しい。
ガーボルに限らず、ジプシーの家では
家の仕事はあくまで女性任せなのが一般的のようだ。
グレープフルーツの輪切りやら鶏肉の胸肉を焼いたものやら
ドンと激しく音をたててテーブルに並べられる。
あくまで無愛想だ。

たかのてるこさんの旅番組「ジプシーへようこそ」の上演会がはじまり、
いろいろな解説を含めて見ているうちに夜が更けてきた。
私たちは普段は若夫婦が寝室としている部屋に通され、
そこで眠りについた。
赤々と燃えていた暖炉の火もいつしか消えて、
朝の空気の冷たさが眼をさます。

ガーボルたちは深夜に遠出のために家を出たので、
家は息子と母親のふたりきり。
礼をのべて家を出た。

青い空に朝日が高くのぼってゆく。
空気が凍るような冷たさの中、
昔ながらの古い民家の前にジプシーの女性と子どもたちが
きれいに並んでこちらをにこやかに眺めていた。
「どこへいくの?」
「どこか窯を見にいきたいんだけど。」というと、
子どもたちは我先にと道案内をはじめる。

Kolond 191

「きのう、ガーボルさんところに泊まったんでしょ。
あそこはうちの親戚だよ。
お金がこんなにあるんだよ。」と無邪気な少年は大人びたように
手を高く上げてみせる。

「あなたたちもガーボルなの?」と尋ねると、
「そうだよ。」と胸をそらして答える。
「まだ帽子はないけれど、12歳になったらもらえるんだ。
どこか外国から持ってきて、一個100ユーロもするんだよ。」
少年は快活そうな黒い瞳をくるくるさせて答える。

ちいさなガーボル・ジプシーの雛たちは、
途中まで私たちを見送ったあと、
おしゃべりをしながら道を引き返していった。

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comments(2)|trackback(0)|ジプシー文化|2011-11-03_18:20|page top

パライドの塩鉱山

10月最後の週は、息子の小学校が休みだった。
せっかくなのでと旅行の計画が話題になるものの、
息子の咳もやまず、外の天気はいよいよ怪しくなっていくばかり。
遠出の話もそのまま立ち消えてしまいそうになったとき、
「このお休みは、ぜんぜん楽しくなかった。」
眼に涙をうかべてこう訴えた。

乗り気でないダンナを置いて、
次の日の朝早くにマイクロバスで北へ出かけることに決めた。
ここから北へ3時間ほどバスで行ったところは、
塩の地方と呼ばれるところ。
パライドという村には、塩鉱山があり、
そこは保養地であるばかりでなく、娯楽の場所でもあるという話だ。

真っ暗なうちに家を出て、
バスターミナルでマイクロバスを待つ。
10月も終わりとなると、朝晩の冷え込みがはげしく、
体を震わせながらひたすらに待たなければならない。
座席が15席ほどしかない長距離バス。
やってきたのは出発の10分前だった。

狭い座席で、息子の頭が視界を大きくさえぎる。
息子をひざにのせて車に乗るのも、もうあとしばらくだろう。
「どこか遠い所へ行きたい。」と話していた息子は、
そういえば小さい時から旅の連続だった。
はじめて遠出をしたのは、まだ生後二ヶ月を過ぎた頃だった。
ブダペストで当時大学に籍を置いていたため、
アパートを引き払いに行くときに小さな息子をバスケットに乗せて電車で向かった。
やがて生後6ヶ月で日本へ引越しをした。
日本とトランシルヴァニアを何度も行き来しているから、
旅が恋しくなるのも仕方のないことかもしれない。

もう紅葉も見納めにちかい、最後の色彩を放っていた。
町をすぎて、山越えをして「森の地方」を通って、
さらに山を越えて、今度はハルギタ県へと入る。
セーケイウドヴァルヘイをすぎて、さらに山道を登ったところが「塩の地方」である。
シェプシセントジュルジから、マイクロバスで3時間。
私たちは、小さな村で車を降りた。

村の中心まで行くと、塩鉱山の入り口があった。
料金を払いバスに乗ると、
すでにたくさんの子供づれが待っていた。
鉱山の入り口がぽっかりと口を開いていて、
やがて私たちの乗るバスが呑みこまれていく。

真っ暗のトンネルが続いて
5分ほど経っただろうか、
いつしかバスは入り口の前で止まった。
バスを降りると、まずその匂いが鼻についた。
なんともいえない湿った匂い。
これが塩の匂いなのだろう。

扉を開けて、長い階段を下りると、
そこは果てしなく巨大な空間だった。
ツルツルに磨き上げられた床は大理石のようだ。
まるで洞窟にスケートリンクを作ってしまったような感じ。
息子は、買ったばかりのローラースケートに履き替える。

Kolond 012

端にはずっとテーブルやいすが並んでいて、
皆各々に好き勝手なことをしている。
ノートブックパソコンを開いているおじさんや、
ピクニックよろしくお弁当を広げて昼食の真っ最中の家族など、
子どもたちはボール遊びをしたりして外の公園と
地下何メートルの洞窟にいるとは思えない。
みんなそろって「現実離れ」にいそしんでいる。

息子が楽しみにしていたのは、
周りがぜんぶ塩であるというその環境。
塩だから真っ白かと思っていたらそうではない。
白の部分と黒の部分が、マーブル状に混ざり合っていたり、
全体として灰色という雰囲気だ。
壁をなめて、その辛さを舌で確かめていた。

Kolond 018

中にはカトリック教会だってある。
日曜日にミサが開かれるのだろうか。
確かに音響はよさそうなので、オルガンの音や歌声がうつくしく響きそうだ。

Kolond 010

ひとつテーブルを選んで、私は本を読んでいた。
隣席のお母さんとおばさんが
息子にお菓子をくれたりして、自然と打ち解けてきた。
「私は喘息だから、子どもを二人連れて一週間療養に来たのよ。
子どもたちは朝から晩まで遊んでいるわ。」

走り回る子どもたちは元気そうだが、
ずっと座っているこちらは足腰が冷える。
どうしてか頭も痛むようだ。
そろそろ終了時間かと時計を見ると、
まだ二時間ほどしか経っていない。

昔は塩を採るためにここで一日中すごして働いていた人々を、
つくづく気の毒に思う。
日光の光りも当たらず、時間の流れとも無関係で暮らさなければならない。

Kolond 020

4時に引き上げることにした。
真っ暗なトンネルから出て突然、外の明るい世界に変ったとき、
そのまぶしさに目がくらんだ。
仲良くなった家族と次の日も来るように約束をして分かれたものの、
まだ泊まる場所も明日の予定すら決まっていなかった。

思い立って、二つ先の村に住む知人に電話をしてみた。
おととし、たかのてるこさんがトランシルヴァニアのジプシーと出会う旅をしていたとき、
人違いで出会ったガーボルジプシーだった。
まだ一度も会ったことはなかったが、何度か電話で話をしていた。
「次のバスで行きます。」
そう話をしてから、私たちはバス停へと向かった。



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