トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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モルドヴァのチャーンゴー人

学生時代に、あるハンガリー人の文通相手を紹介してもらった。
ブダペスト近郊に住む彫刻家、兼写真家の彼はチョマ・ゲルゲイという。
民俗衣装に興味があるという私に、彼が足繁く訪れるという遠い村の話を聞かせてくれた。
踊るような芸術的な手書きの文字は、まだ十分な外国語理解能力をもたなかった私を悩ませたものの、
それを苦心して読むうちに、彼のライフワークについて知ることとなった。

やがてブダペストで半年、語学留学をすることに決めた。
2月にハンガリー入りをして、4月のイースターの頃にはもうゲルゲイに連れられてモルドヴァの地を踏んでいた。
ブダペストから国境を越えてルーマニアに入り、さらにトランシルヴァニア地方を横切って、カルパチア山脈を越える。
電車で、優に1日はかかった。

電車の無人駅で降りて、そこからあぜ道を歩いて村に入る。
村に少し近づくと、彼の知り合いが乗っていた馬車に乗せてもらう。
今では当たり前のような出来事が、何もかもが珍しかった。
ちょうど桃やリンゴの花が満開の頃で、かぐわしく香っていた。

敬虔なカトリック教徒にとって、イースターはクリスマスと並ぶ大切な宗教行事である。
イースターの日曜日の夜、肌寒い教会の中にろうそくの火をともして沢山の村人たちが集まった。
頭から足の先まで真っ黒の衣装に包まれたおばあさんたち。
ミサの後は、賛美歌を歌う村の人たちについて真っ暗な村の端の十字架まで歩いた。

村から村へは歩きが主だった。
クレージェからショモシュカ、そこからクルシュー・レケチンへは
道があってないような森の中を、オオカミやらを恐れながら歩いた。
機織のおばさんの家を訪ねると、小さな部屋に大きな織り機が置かれ、おばさんが作業をしていた。
蛍光色などの入り混じった織物を広げては見せてくれ、
そのひとつを惜しげもなくプレゼントしてくれた。

ゲルゲイの仕事は、主に人の写真を撮ることだった。
各地の村の知人を訪ね歩き、そこで人と話し、古いチャーンゴーの習慣やまじないを記録する。
時には、ヨーロッパ人からは異質に見えるようなチャーンゴー人の顔を探してはフィルムに収めていた。
古くアジアから来たというハンガリー人のルーツをそこに見ていた。

カルパチア山脈の向こうで、ハンガリー語を話す民族がいる。
その事実が、ハンガリー本国に大々的に伝わったのは、90年が明けてのことだった。
ブダペストに、モルドヴァから民俗衣装に身を包んだ1000人のチャーンゴーが集まった。
すでに社会主義時代から秘密警察の目を隠れて、
チャーンゴーの村を渡り歩いていたゲルゲイたちの計らいだった。

長い間、ハンガリー語の教育や母国語によるミサが禁じられていたため、各家庭で口承による言語教育がなされた。
そのため、言葉にルーマニア語が混ざっている部分があったり、
何百年も昔の古いハンガリー語をそのままに伝えている部分もあるという。
当時の私に、彼らの話す言葉の何割が理解できていたか疑問である。常にゲルゲイという通訳者がいた。

彼のもうひとつの仕事は、ブダペストでハンガリー教育を施すことを子どもたちに勧めることだった。
モルドヴァの片田舎の村で生まれた子どもたちにとって進学は難しく、
特にハンガリー語で教育を得ることなく育ってしまう。
母語を失いつつあるチャーンゴー人の同胞。
同じハンガリー人としてそれを見て見ぬ振りはできず、そのための苦労を厭わなかった。

それから、二度も彼のモルドヴァ行きへ同行した。
ハンガリー本国はおろか、トランシルヴァニアの村さえも行かず、
私にとって村とは1日以上も電車を乗り継いでいく遠い地方だった。
クルージ・ナポカで大学生となった時にも、トランシルヴァニア地方からモルドヴァへひとりで電車で旅し、
ある地方都市の駅で彼と待ち合わせたこともあった。

民俗学部のフィールドワークの一環として、偶然にもゲルゲイと何度も訪れた村へ滞在したことがあった。
モルドヴァにチャーンゴーの博物館を作るため、古い品を集めるのが目的だった。
トランシルヴァニア出身の学生たちのグループに混ざり、村を歩いて見たものはこれまでとは少し違っていた。
私たち学生のグループに向かって、ルーマニア語で「俺たちはハンガリー人なんかじゃない!」と
凄い剣幕で食ってかかる人もいた。
どうやら村では、ハンガリー派とルーマニア派に分かれ亀裂が生じていることが分かった。
当時の両国の政治の状況がそのままに、奇しくもこの小さな村を舞台に村人たちの間で繰り広げられている。

両国の代表者がむきになって主張を争う一方で、その状況は過激になっていった。
年寄り同士がかろうじてハンガリー語で会話し、若い子どもたちはルーマニア語しか話さないのを多く目にした。
2000年頃から、そうした両国の思惑から逃れるようにして、
チャーンゴーの若者たちはそのどちらでもない、西欧諸国に出稼ぎに出るようになった。
村では若い働き手がほとんど見られず、子どもか年寄りだけになった。
モルドヴァの村はおろかルーマニアという国さえ、いとも簡単に捨てて出ていく若者たち。
自分たちが何物であるか、そんな事には構わず、ただ職のある所へ渡り鳥のように旅立っていく。

私はゲルゲイに手紙を出した。
「チャーンゴー人たちは混乱している。どうしてそんなにまでして、ハンガリーへ連れて行かないといけないのか。」と。
彼は私に失望したらしい。それからは、ほとんど連絡を取り合うことはなかった。
やがて、彼はハンガリー政府のプロジェクトで、ハンガリー語の教師としてモルドヴァの村へ赴いたと聞いた。
その後も、彼とは直接は会わないものの、人を通じて彼の写真集を何度か受け取った。

今から思えば、一見平和そうに見えたモルドヴァの村々では闘いが繰り広げられていたのだ。
彼は戦士のように敵地ルーマニアに赴き、かつて自分たちの領土だった土地の人たちを、
何とかして目を覚まさせてあげないといけないという強い使命感に燃えていた。
私たち日本人には到底理解できないような状況だが、いくらナショナリストと言われようと、
少数民族は強いアイデンティティなしには儚く消えてしまう存在にある。

あれから、私はまだモルドヴァのチャーンゴーの村を旅していない。
10年前の知り合いたちはどうしているのか、村はどのように変わってしまったか、
いつかこの目で確かめないといけないと思っている。


チョマ・ゲルゲイ著、粂 栄美子訳
「モルドヴァのチャーンゴー人」

ナショナル・ジオグラフィック
「遊牧の民の遠い記憶-チャーンゴー」

パプリカ通信2004年、谷崎 聖子
「モルドヴァのチャーンゴー人」













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Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(4)|trackback(0)|文化、習慣|2011-09-28_11:07|page top

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No title
複雑な民族問題は、当事者でないと理解できないことがいろいろありますね。
実際にその地域でも、世代と、それこそ個人個人で考え方が違いますものね。
逆に「世界中からの移民の街」Londonで暮らしていると、「国」という意識自体が、とても人工的なものに感じられてしまいます。
歴史的に、何千年もの間、民族や部族、小さくは家族単位で、より生活をしやすいところに移り住んでいったわけで、「国家」という概念で場所に縛り付けられるようになったのは、ほんのここ数百年の間のことだ、ということに思い当たるのです。
自由に自分の存在する場所が選べて、それでいて、自分の「魂のルーツ」も同時に維持できる、そんな状態が(体制としても、個人の意識の持ち方としても)実現すると、理想的なのかな・・・などと夢想します。
なんだか、複雑なこと書いてしまいましたが・・・(笑)。
Re: No title
Kotomiさん、
ここ東ヨーロッパは絶えずよその民族に脅かされ、
国の国境が時代によって引かれたり消されたり・・・の歴史でした。

中世ではキリスト教の影響が絶大でしたから、
その中で言語が違い習慣の違う人たちも一緒に生活していました。
それが近代になって、民族による国家が叫ばれるようになり、
人工的な国境線によって人々が縛られるようになりました。

ロンドンのような国際都市では、
そういう古い土地に固執して生活している人のことが忘れられがちだと思います。
ここでは、言語や習慣を異なる人たちが権利を主張し合い、
1919年の戦後処理の問題が今も傷あとを残しています。

チャーンゴー人は強い共同体ではないため、
歴史に翻弄され、自分たちのルーツが大きく揺らいでいます。
自分たちが何者であるかを知らない人たちは、
世界の中をただ空ろに漂流するだけだと思うのです。

私たち日本人というものは、
言語や文化、歴史もしっかりとしているので、
世界のどこにいても日本人でいられる。本当に有難いことだと思います。








No title
こんにちは。この本持ってます!著者と交流があったなんて、感動してしまいました。薬草で体の悪いところを治したり、釜を回しながら、呪文を唱えたりなどは、アーユルヴェーダを学び始めた後で読み直したら、なるほどと思える事があります。呪文は気を送って、悪いものを追い払っているのかも、という感じです。
Re: No title
yuccalinaさん、この本をお持ちなのですね。
まずハンガリーで80年代に出版されて、
それから日本で出版されましたが、写真も文章も違ったと思います。

チャーンゴー人は敬虔なカトリック教徒ではあるのですが、
昔からの民間療法、またはおまじないというものが強い信仰として残っています。
近くに医者がなく、自分たちで治す必要があったからでしょうね。

ハンガリー人からは離れ、
ルーマニア人の中で孤立した形で暮らしてきたので
古くからの習慣を残し伝えているという点で
80、90年代ころからハンガリーの民俗学の世界でも注目されてきました。