トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニア地方のフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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ジトンとニコラ

私がはじめてジトンと出会ったのは、
8年前、ブダペスト郊外にあるグドゥッルーという町だった。

今から約100年前のグドゥッルーには、芸術家コロニーがあった。
当時その時代の研究をしていた私には、大いに縁のある土地でもあり、
そこで2月の寒い日に、アニメーション映画祭が開かれた。
会場は、グドゥッルーの芸術家の新しい溜まり場。

60年代から80年代までに作られた、
かの有名なパンノニアスタジオで作られた短編アニメーションを見るというもの。
会場に入ると、一番前の席に座っている
鮮やかな緑色の服を着たアジア系の女性がひときわ目を引いた。
印象づけたのは、輝くような彼女の存在感だった。
ハンガリー語を自在に操り、アジア系の女性には見られない堂々とした立ち振る舞い。
会場にいる芸術家などの誰よりも、まず彼女の姿に目をひかれた。

休憩に入ると、別室ではラードをたっぷりぬったパンやお茶などが出された。
ダンナと話をしながら、飲み食いしていると、
「ねえ、彼女は何人?」とダンナに向かって話しかけたのは彼女だった。
直感的に日本人ではないと悟った。
私の知る限り、見慣れないアジア系の人に一人で話しかけるということをまずしなかった。
「ハンガリー語ができるよ。」とダンナが言う。
こうして彼女は台湾人であること、彼女の名を知ることとなった。

ジトンは言う。
「あなたと同じよ。私にも子どもがいるの。」
私のお腹はその頃、ずいぶん大きくなっていた。
彼女のは、まだ言われて見ても分からないほどに小さかった。
そして彼女は、もうすぐ10年暮らしていたハンガリーを離れ、
子どもを出産してから日本に行くことになるのだと語った。
彼女の夫はドイツ人で、日本でロボットの研究をしているという。

彼女はというと、ハンガリーの国立人形劇団で働いていた。
日本人の女の子の持つような甘さはなく、
理知的な表情の中に無邪気ないたずら心を忍ばせていた。
その日の一番の収穫は、彼女に出会ったことだった。


やがて私はルーマニアで出産をした後、家族とともに日本へ帰った。
日本の生活に慣れるのに精一杯だったころ、彼女から電話があった。
彼女はハンガリーで出産してから、ご主人のいる関西に来ていた。
私のいる九州と関西は海を隔てていることすら知らない様子だった。

彼女は日本で子育てをしている。
台湾人の母親とドイツ人の父親をもち、
英語で会話する家庭環境のもとで日本に暮らしている。
それが、ニコラ少年の置かれた不思議な環境だった。


私たちが再会したのは、兵庫県の山手の町だった。
大きなベビーカーを押して、ジトンは現れた。
色白の細面の顔に、大きなまつげをしばたたかせる子どもがニコラだった。
私が日本語で話しかけるのが聞こえないかのように、彼は無反応だった。

「なんだか堅苦しそうにみえるけれど、
日本人だって面白いわ。」
それは彼女の本音の意見だった。
「私の三味線のお師匠さんは80近くのお婆さんなんだけれど、
お稽古が終わるとワインを出してね、一緒に飲もうなんていうの。
ふだんは飲まないんだけど、と恥ずかしそうに口にしながら・・。」

彼女は、言葉の通じない異国で子育てをする外国人だった。
外見はアジア人そのものだったが、
青春時代をハンガリーで過ごした彼女の中身はヨーロッパ人のようだ。
そして日本文化を彼女なりに吸収しようとする姿は、美しかった。


家族を連れて、彼女の家に泊まったこともある。
夜にご主人さんが外国人の客を連れてきて、いっしょに食事をした。
大阪でも悪名高い、西成区で手に入れたという三味線を見せてくれる。
「もちろん、強そうなボディーガードを連れて行ったわ。
どこかの橋の近くに、何でも売っている市があって、
そこで見るからに恐そうな男らが物を売っているの。」

彼女は、その三味線の腕を披露した。
「三味線はね、ふつうは弾き語りしないものなのだけど・・・。」
と英語で前置きを入れて、つま弾きはじめる。
私の故郷の民謡、シャンシャン馬道中だった。
三味線の和音の響きと、低く通った美しい声がいっしょになって心地よく漂った。
落とした照明の中に、彼女の姿がうつくしく浮かび上がった。


一度だけ、私の九州の私の実家に遊びに来たことがある。
台所で料理をしながら話をしていた。
「私のおじいさんは、日本の砂糖工場の社長だった。
従業員用に日本式の住宅が建てられて、私たちもそこで育ったわ。
お父さんは生け花の師匠で、詩を書いたりしていた。いわゆる芸術家ね。」

「そんな日本びいきの家庭で育ちながらも、大学では英語を専攻して、
副専攻語はみんな日本語を選んでいたのに、私だけ選ばなかった。
日本語なんて勉強することないと思っていたのに、
人生なんて分からないものね。今、私はここにすんでいる。」


ニコラは日本の幼稚園に入り、子どもたちのアイドルとなっていた。
家の中できゃしゃな体ととろけるような笑顔をふりまき走り回っている。
言葉ができないからか、意思をはっきり見せず、
無色透明にどこにでもなじむ、風のような子どもだった。

ジトンが言った。
「ある日、ニコラがラブレターを持ってきたの。
年上の幼稚園の女の子からで、もうびっくりしたわ。
こんなとこにずっといたら、どうなってしまうかと思った。」


私たちは3年間を日本で過ごした後に、トランシルヴァニアへと移った。
そしてジトン一家はというと4年の後に、台湾へと引越しをした。
ご主人が台湾の大学で働きはじめたため、ジトンも故郷へ戻ることができたのだ。
故郷で元気にしているだろうと思っていたら、
彼女からは鬱だという思いがけない返事だった。
ニコラはようやく、母国語の発揮できる環境に落ち着いたというのに。


二年前、ジトンたちとここトランシルヴァニアで再会した。
ドイツ、ハンガリー、そしてトランシルヴァニアへとはるばる車でやってきた。
ドボイの村で過ごしたことは忘れられない。
冗談半分か本気なのか、ドボイに家を買おうと思って調べたこともあった。

5才になったニコラは、少年らしい顔になっていた。
英語とハンガリー語、日本語を交えながら
ふたりでおしゃべりをしたことがある。
彼が生まれ育った環境で、
その土地土地の言葉やさまざまなものを吸収した結果、
風のようにどこにでもなじみ、少ない語彙で意思伝達する術をすでに学んでいた。


ジトンとニコラ、
ふたりはアジアとヨーロッパの二つの大陸、
台湾とドイツの二つの国を股にかけて生活をしている。
今現在はハンガリーに来ている彼らとの再会は、来年になるだろうか。
まだ見ぬ台湾という国へ、二人を訪ねに行くことを夢に見ている。

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comments(2)|trackback(0)|その他|2011-11-26_17:56|page top

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No title
中国、台湾、韓国などの人たちのメンタルな部分は
日本人とは全く違うようです。
国は近くて 顔が似ていても やはり大陸の
ひとは別なようだと 何かで見ました。
良し悪しじゃなく そんな根っからのものが
存在するんでしょうね。
ニコラは 凄い運命ですね。
それをプラスに取り込んで 逞しく利用して
育って欲しいです。
Re: No title
私はジトンと出会ってはじめて、台湾という国に興味を持ちました。
女性でも兵役があるという小さな国、
親日の国ですが、驚くほど自分が知らなかったことに気がつきました。

彼女は4年間の日本の生活で、日本を好きになったようです。
彼女のような国際人が、こうして日本文化にも興味をもってくれたことは誇りに思います。

そうしてニコラは、複雑な文化の入り混じった環境で生まれ育ち、
将来はどんな考えをもつ大人になるのか楽しみです。
一年の半分を台湾で、半分をドイツで学校に通う子ども。
私たちの頃には考えられないような環境です。