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トランシルヴァニアへの扉 - Erdely kapuja-

古きよきヨーロッパの面影を残す、トランシルヴァニアへの扉をそっと開いてみませんか?

::自己紹介::

谷崎 聖子

Author:谷崎 聖子
1978年宮﨑生まれ。
大阪外大、ハンガリー語学科卒業。
ブダペスト大学で民俗学を専攻。
ルーマニア、トランシルヴァニアのフォークロアに惹かれて、セーケイ地方に移住、結婚。
三人の子育て中。

伝統手芸研究家。
トランシルヴァニアの文化、手しごとを広める活動をしています。主な著書「トランシルヴァニアの伝統刺繍 イーラーショシュ」、「カロタセグのきらめく伝統刺繍」。

東欧雑貨ICIRI PICIRIFOLK ART Transylvaniaのオーナー。

詳しくは、森の彼方-トランシルヴァニアへの扉をご覧ください。

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ブログ翻訳

ピシュタおじさんとシャーマンの像

ずっと会いたいと願っていた人に会うことができた。

私の人生の中で一番大きな転機となったのが、
クルージでの生活だった。
2000年の秋から半年間、
バベシュ・ボヤイ大学でハンガリー民俗学部の聴講生となった。
この半年間で、数え切れない出会いがあり、
そのひとりがピシュタおじさんでもあった。

大学講師をしていた人に連れられて、
ホレア通りにある古いアパートの一室に入った。
著名な文芸評論家というおじいさんは、
私の手の指の爪を見ると、「なんて趣味の悪い色だ。」と顔を歪めた。
あっけにとられていると、
今度は笑顔で話しはじめる。
話題が豊富で、紙にさまざまなことを書きつけて、
別れるときにはいつも手渡してくれた。
私の研究テーマとなった、
ハンガリーの装飾の本を紹介してくれたのもおじさんだった。
大学の授業より、ある意味で貴重だったかもしれない。

手紙のやりとりが絶え、
気がつくと数年が経っていた。
もう大分高齢のはずなので、達者でいるのかどうかも分からず、
それでいて、確かめるのが怖かった。

今回の滞在中に、クルージ出身の友人におじさんの名を知っているか尋ねてみた。
偶然にも彼女の知り合いで、まだあの場所で住んでいるという。
息子の手をとって、私はホレア通りのアパートの裏側に回り、
おじさんの名前を探した。
時代は変わって、インターホンが門についている。
スーチ・イシュトヴァーンという名前はそこにはなかった。
同じ苗字があったので、思い切って押してみる。
耳が遠かったおじさんのことを思い、
大声で自分の名を告げると、ドアがひらいた。
半信半疑で古い階段を上っていくと、
途中でガウンを着たピシュタおじさんの姿があった。

「孫たちが大きくなったので、
わしたちはこちらに移ったんだよ。」
前よりも小さな空間だが、
おじさんの部屋の空気はそのままだった。
赤い刺繍のクッションがあって、
おじさんの描いた絵が壁にかかっていて、
そして沢山の古い本が並んだ本棚がある。
すべてが昔と同じなのに、
私の横には8歳になった息子がいるのが不思議だ。

kalotaszeg2012aug2 129

おじさんは葉巻に火をつけて、
旨そうに吸いはじめた。
「一日に一本だけ、これを吸うんだよ。」
と最高の贅沢のように嬉しそうに笑う。
ヘリコンというトランシルヴァニアのハンガリー人の文学誌の編集も務め、
記事を書いてきたおじさんは、もう85歳になるという。
「あなたはもう何歳になったかね?」
「34歳です。」と苦笑しながら答えると、
「何だ。もう年寄りだ!」と笑った。

ピシュタおじさんの部屋の中でもひときわ印象的なのは、
おじさん自身の手で描かれた絵画。
赤と白のテーブルクロスに、人物の像が置かれた静物画もあれば、

kalotaszeg2012aug2 147

日本を髣髴とさせる絵もあり、

kalotaszeg2012aug2 148

首から上だけの女性と男性の配置が不思議さを漂わす絵もある。

kalotaszeg2012aug2 145

右上に描かれている不思議な鳥は、
おじさんが生涯ずっと大切にしている宝である。
「あのシャーマンの像は?」と聞くと、
おじさんは瓶の中から例の像を取り出して机の上に置いた。
いつ見ても美しく、引きつけるところのある像である。

「この像が不思議なのは、女性の姿でありながら、
後ろから見ると、腰が微妙にゆがんで見える。つまり、びっこだったということだろう。
その上、鳥の仮面のようなものを注意すると、目の焦点があっていない。
手にはシンバルのような打楽器をもち、
手と足には刺青のようなものさえ見える。
シャーマンの像ではないかと思うんだがね。」

kalotaszeg2012aug2 134

大切なシャーマンの像を、
ふたたび大事そうに瓶の中に入れてふたをした。
「魔力が逃げていかないようにね。」といたずらそうに笑う。

ピシュタおじさんと奥さん、
そして息子といっしょに夢のような時間を過ごし、
しばらく興奮が冷めやらなかった。

kalotaszeg2012aug2 162

クルージ・ナポカの町。
私たちはコロジュヴァールと呼ぶ。
かつてはハンガリー人の町だったのが、
今ではわずかに20%に満たないと聞いている。

kalotaszeg2012aug2 171

おじさんの息子のオットーは言う。
「もうこの町は、僕が子供のころに知っていたものではないよ。」
古きよきコロジュヴァールの姿は、
聖ミハーイ教会とマーチャーシュ王の生家、
そして古いアパートの中に辛うじて残っているのかもしれない。

kalotaszeg2012aug2 196
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comments(2)|trackback(0)|文化、習慣|2012-09-13_15:23|page top

クリスマスの前に

もうすぐクリスマスがやってくる。
モミの葉でいっぱいに茂らせたリースをつくり、
その上に4本のロウソクをたてて、
やがて週末がくるごとに一本一本と火をともしていく。
アドベントリースには、もう3本目のロウソクに火がともされた。

女性たちは、クリスマスのお菓子作りで大忙し。
それぞれの家庭のレシピをたいせつに守りながら、
この祝いの日のためにこころをこめて焼く。
伝統のお菓子は数あるけれど、中でもはちみつクッキーは、
はちみつに丁子、シナモンなどのスパイスを入れるせいか、日持ちもする。
縁日には、きれいに飾りつけられたはちみつクッキーは
今でもおみやげ物として尊ばれている。

「はちみつクッキーをいっしょに作りましょう。」
友人のエリカに呼ばれて、彼女の家に子どもを連れて行った。
「昔からね、クッキー作りは友達同士で和気あいあいと作っていたものなの。」
ふたりの姉妹が、仲良くクッキーをこねる姿がほほえましい。

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はちみつにマーガリン、砂糖に卵、小麦粉、ベーキングパウダー。
そしてスパイスを少々。
固い生地をこねるのは、大変な作業。
「ここで頑張らないと、私たち主婦はいつ筋肉をつけるの?」とキンガが笑う。
やがて辺りいっぱいに、なんとも言えない魅惑的な香りが広がった。

csikszentsimon 018

生地は、本当ならば一晩ねかさないといけない。
子どもたちを呼んで、さっそく型を取る作業がはじまった。
姉のキンガは子どもたちに号令をかけて形をつくり、
時おり、メゾソプラノ歌手のエリカの美しい歌声が部屋にこだまする。

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待ちきれない子どもたちは、
生地をそのまま口に放りこんでしまった。
そのままでも、「おいしい。」と笑顔がこぼれる。

csikszentsimon 034

あたたかな湯気と甘い香りを立ちのぼらせて、
はちみつクッキーが焼きあがる。

csikszentsimon 043

星にハート、天使に雪だるまにプレゼント・・。
アイシングで飾りつけるのは、工作みたいな楽しい作業。
クリスマスツリーに飾られるのは、割と新しい習慣のよう。
冬の短い一日が、あっという間に暮れていった。

csikszentsimon 048

町の市場では、
森から運ばれてきたモミの木がいっぱいに置かれている。
しばらく目にすることのなかった緑色が目に鮮やかに、
そしてその香りがツンと鼻をつく。
放射線をえがいて大きく広がった枝には、
やがて色とりどりの飾りがつけられ、
子どもたちの目を楽しませることだろう。

ICIRIPICIRI85 023

去年は我が家にツリーはなかった。
その代わりにちいさな鉢植えのモミの木を買い、大切に育ててきた。
子どもたちの喜ぶモミの木は、
幹を切りとられて短い命となった哀しい木の宿命をも意味している。

ICIRIPICIRI85 024

博物館では、週末にクリスマス市がひらかれた。
所狭しとならべられた手作りの品々、
楽しい音楽にワインにお菓子・・・。

ふと一つの台で足をとめた。
そのとき、「この人。小学校の・・。」と息子が私の袖をすこし引いた。
息子の同級生の家族だった。
木笛やギターのような手作りの弦楽器をいっぱいに並べた家族と話をした。
「これはカザフスタンの楽器だよ。」などと話す彼らは、
少し前まで母親の里のロシアに住んでいたそうだ。
カティのお母さんは、ロシアの少数民族ウドゥムルト人であるという。

ちいさなカティは楽しそうに笛を吹いていた。
お父さんが弦楽器をかきならすと、カティは歌いはじめ、
そこだけほのかな明かりがともったように見えた。

ICIRIPICIRI85 019

私は息子のために、木彫りの笛をひとつ求めた。
ほんとうの幸せとはなんだろう。
クリスマスがやってくるたびに、
私たちは同じことをくり返し考えさせられる。

Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(2)|trackback(0)|文化、習慣|2011-12-20_05:02|page top

コロンドの花模様

真っ青な青空とはうらはらに、
手足の先を凍らせる冷たい朝だった。
裏に綿がついている冬靴を履いていたが、
それでも指先がかじかんでいる。
息子はローラースケートに履き替えた。
地面に接しない分、足があたたかいという。

私たちは帰りのバスの時間を調べに、
村の中心まで砂利道を歩いていた。
家並みの向こうには、茶色く秋色をした丘が見渡せる。

Kolond 203

コロンドは陶芸で有名な村だ。
ここ20年ほどは、村の景観はすっかり変わり、
お土産ものの村と化してしまった。
陶芸製品ばかりでなく、まるでガラクタ市のように
県道に沿って商店がひしめきあっている。
「もうコロンドでは陶芸を作ってなんかいないよ。
どうせ中国かどこかで作らせて、そこで売っているだけさ。」
嘘か本当かも知れぬうわさを聞いたことがある。
それだけに、昨夜のベンツィおじさんの仕事を見たことは発見だった。

せっかくだから他の窯も見てみたいと思って聞いてみると、
その先の通りに有名な職人さんがいるとの話。
門が開けっ放しの家の庭に入っていくと、
庭のあちらこちらに美しい陶器が飾られている。
納屋の壁に塗りこめてある、いかにも年代物のタイルが目を引いた。

Kolond 212

残念ながら、家の主は留守のようだ。
後ろ髪ひかれながらも、そのまま大通りへ向かって歩みを進めた。

ルーマニアで一番ハンガリー人率の高いといわれるウドヴァルヘイ地方であるから、
ハンガリー人観光客の通り道でもある。
村ではあるが、観光案内所まであるのに驚いた。
中に入り、めがねをかけた若い男にセントジュルジ行きのバスを尋ねる。
「そこは、確か・・。」と電話かパソコンで調べると思いきや、
うろ覚えのように「10時半にバスがくると思いますよ。」と掃除の手を休めて言った。

バス停はちょうど、通りをはさんで反対側にあった。
待てども待てでも、バスはこない。
仕方なく、通りを行く人に尋ねると、
次のバスまであと1時間ほどもあるという返事。

Kolond 216

まだ帰るには早いかと思っていたところだったので、
村まで引き返す。
先ほどのアトリエは相変わらず留守のようだったので、
村のさらに奥へと進むことにした。
「陶芸の職人さんを探しているのですが。」というと、
「この通りを登っていったところにあるわよ。」とおばあさんが言う。

長い坂道が続いていた。
ちょうど道路が舗装されるところらしく、
道路工事のおじさんたちが途中にたむろしていた。
そこで尋ねると、「イムレおじさん」という名前を聞くことができた。

やっとのことで家に着くと、
奥の小さな小屋で人の気配がするので戸をたたいてみる。
暖房のきいた日当たりのよい作業場では、
ちょうどイムレさん夫妻が作業をしているところだった。

Kolond 218

仕事の手を休めずに、にこやかにおしゃべりで迎えてくれる。
やがて夫婦と息子さん夫婦も手伝いながら、
奥の窯から焼き物を取り出す作業がはじまった。
窯の上には、陶器の破片などがしっかりとふたをしている。
ガラガラガラ・・と陶器がぶつかり合い、はじける音が聞こえてきた。
焼きあがるたびに、こうして破片をすべて落として、
窯のふたを開けないといけない。

Kolond 257

村では男性が陶芸をして、女性が絵付けをするという分担がされているようだ。
「花をつける」という言葉が表すように、その模様は花が多い。
一年の半分は花の咲かない北国であるため、
花で飾ることを心から欲しているせいなのだろうか。

Kolond 343

そうしているうちに、バスの時間は過ぎてしまった。
ここトランシルヴァニアの人たちと過ごしていると、
予定というものがあまり当てにならないということを身にしみて思わされる。
そういう余計な事で縛られる代わりに、
予定外の驚きや人の温かさに助けられることもしばしばだ。

帰り道に、朝から何度も訪ねては引きかえしていたアトリエに寄ると、
もう家の主が帰っているようだ。
離れにある小さな部屋を見せてもらう。
コロンドは20世紀はじめまで、素朴な素焼きの焼き物を作っていた。
それからよその村が陶芸作りをやめてしまうと、
今度は周りの村の型を作りはじめた。
やがてザクセン人の青いペイントも取り入れ、
それぞれに装飾が違う40もの窯ができたという。
つまりトランシルヴァニアの陶芸を一堂に集めたのが、コロンドである。

Kolond 370

マグディさんの居間に案内してもらった。
電灯の光りを浴びて、焼き物がまるで宝石のようにきらきらと輝いた。
土色の深い色合いに、密集した花模様が浮かびあがる。

Kolond 374

マグディおばさんは、言う。
「コロンドはかつての素晴らしい焼き物の文化を失いつつあるわ。
作ることをやめて、皆がより簡単な商売の方へ走ってしまった。」
あの大通りに並び立つみやげ物の列を見るだけで、
山と積み上げられたガラクタを見るだけで、
村に対する興味が冷めてしまうのは当然だろう。

Kolond 390

ろくろで丁寧に形を作り、
自家製の窯でじっくりと焼き作っている人もいれば、
大量生産できるように型にはめて作る人もいる。

両者の違いは、正しい知識がないと分からない。
今の時代に大切なことは、
私たち消費者が物に対する正しい知識と価値観を養うことなのではないか。
ひいては、それが本物の作り手を生み出し、守っていくことにもつながる。

Kolond 383

フォークアートがハンガリーではじめて、
村以外の人によって発見されたのは19世紀終わりの頃だった。
都市で生まれ育ち、華やかで洗練された芸術を見慣れた人たちを驚かせたのは、
この土くさい素朴な形や色だった。
何よりお金にかえることのできない時間やたくさんの手間を要する手仕事であり、
その計算のない純真な創作魂であった。

Kolond 376

コロンドの陶芸家たちの家を見ても、
実生活で使われて土や埃をあびた作品や
自分の子どもが親に作った思い出の品が、
どんなに飾り立てられた店の品よりも美しいことに気がつく。

フォークアートの発見から100年を過ぎた今、
もう一度作り手たちもフォークアートとは何であったかということを
再確認する時に来ているのではないだろうか。

Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(0)|trackback(0)|文化、習慣|2011-11-06_15:37|page top

コロンドの灰色のアトリエ

薄暗い道をあるいて連れてきてもらったのは、
村に住む陶芸職人の家。
大きな帽子にスーツの肩をいからせて堂々と、
納屋のかたちをした奥のアトリエに歩んでいくガーボル。
知人のベンツィおじさんに表から声をかける。

「もう、仕事は終わりだよ。」そんなやり取りが聞こえたので、
無理をしなくていいと彼に伝える。
それでも何度か頼んでいる様子で、
ようやく納屋の中に明かりが灯され、私たちは中へ通された。

ベンツィおじさんは、口ひげをたくわえた恰幅のいい男だった。
不機嫌そうな表情は、仕事を終えたあとの疲れのせいなのか、
このおじさんの習慣なのか分からなかった。

小さな部屋に入ると、暖かい空気が体を包みこむ。
そして、部屋一面にきれいに並べられた灰色の器が目にとびこんできた。
「これは、キャベツ煮の鍋だよ。」とガーボルが教えてくれる。
トランシルヴァニアで古くから食されるキャベツから名前をとったのであるが、
実は何を料理してもいい。

壷のかたちをした鍋というのは、
たとえば民話の挿絵やアニメーションでもみられる。
有名な「石スープ」というお話では、
とんちの利く旅の男がこの壷のなかに石を入れてスープを作って見せるというもの。
途中で「味が足りない」などと言っては、
村のおばあさんにいろいろな食材をもたせて、ついには美味しいスープをこしらえてしまう。

Kolond 040

奥の部屋には立派な窯もあった。
この村では何でも40の窯元があるらしく、
それぞれの家庭に手づくりの窯がある。

ベンツィおじさんはふたたび仕事机に腰を下ろして、
灰色の泥のかたまりをまるめ、激しく手で打ちはじめた。
コンクリートの壁も、おじさんの服も、
そして泥の飛んだテーブルもすべてが灰色。

Kolond 064

足で勢いよくろくろを回しながら、
泥のかたまりを平たく押さえつけたり、
力をこめて引っ張って棒のように伸ばしたりした。
おじさんの手にかかっては、
魔法にかけられたように変形自在となる。

Kolond 085

細長い先っぽを糸で切り取ると、
それが水差しの先っぽになる。
いったん長い筒を壊してしまってから、
また新しく生命を吹き込む。

Kolond 087

壷のような形がみるみる内に丸みを帯びていき、
すがたが整えてられていくと、先ほどの口の部分を上にのせて水差しの形ができる。
首のところに白い塗料を塗ったあと、
かるく指で波型に線を入れていくだけ。

Kolond 128

コロンドの村で見るお土産品は、
どれも装飾的で華やかなのに対して、
こちらはベンツィおじさんその人そのもののように、
がっしりとした素朴な味わいである。

Kolond 134

おじさんの創作魂に火がついたのか、
それからもろくろは回転を止まることを知らない。
力こぶのできそうなたくましい両腕からは、
時に力強く泥がひねり出され、
時に神経質なほどの細やかな手が加えられて、
灰色の物体はいつしか私たちが何千年と培ってきた道具としての形を備えていく。

Kolond 168

目の前で格闘している物体から、
不意におじさんの目はこちらへと注がれる。
彼独特のポーズが決まる。
作業の間はほとんど口を利かないのだが、
その強い眼が雄弁にも作品の美しさを讃えているようである。

Kolond 173

壷や水差し、皿など一通りの作品を延々と作り上げて、
やがてろくろは回転を止めた。
納屋を改造したアトリエでやがて焼かれた壷は、
化学変化を起こして灰色の器にさらなる彩を与える。

Kolond 031

トランシルヴァニアの民陶は、
おそらく世界的には有名ではないだろう。
際立った特徴のないただの器かもしれない。
それでも、その素朴な大味な形や色が、
ここで人々が育ててきた文化のひとつであり、
たとえば「キャベツ煮」という名前ひとつとっても、
彼らの生活のぬくもりを生々しく伝える何かであるに違いない。

陶芸のアトリエで過ごしたその晩の興奮は、
空気の冷たい夜道を歩きながらも覚めやらなかった。

Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(2)|trackback(0)|文化、習慣|2011-11-05_01:31|page top

私はいったい何人?

「私はいったい何人なのか?」
当たり前に日本という島国で生まれ育った私たちの多くには、
こうした問題と突き当たることはおそらく一生ないだろう。
ところが他民族が暮らしている地域では、これがひとつの大きな問題となる。
今、ルーマニアではちょうど国勢調査が行われているところである。

この間、プロテスタント教会に行ってきたら、
牧師さんがこのような冊子を配っていた。
「これから行われる国勢調査で、民族の名前を書くところには、
皆さんマジャール人と書きましょう。
他にもハンガリー人、セーケイ人などの選択肢もありますが、
これは私たちの人口を分散させるための思惑なのです。」

ハンガリー人のことは、彼らの言葉ではmagyar(マジャール)といい、
ルーマニア語の訳はmaghiara(マギァーラ)である。
また別のルーマニア語での呼び名は、
hungaryが語源のようなungur(ウングル)というものもある。
さらにややこしいことには、
ここカルパチア山脈沿いに住むハンガリー人は、
自らのことをszekely(セーケイ)と呼んでいることである。
ルーマニア語ではsecui(セクイ)と訳される。

もし彼らがそれぞれの思うがままに三種三様に名乗った場合、
結果としてハンガリー語を母国とする人の数が減ってしまうというわけである。
人口20%以上を占める民族の言葉を公で表記すること、
また公でその民族の母国語が使えることがヨーロッパの法律で義務づけられている。
だからこの国勢調査は、彼らの立場を決める大切な機会なのである。

ICIRIPICIRI 016

土曜日の午前中、家の扉のところで息子が誰かを中に入れようとしていたので、
急いでいってみると、調査員だった。
まず日程を電話で話してからくると聞いていたのに、
まったくの不意打ちで呆気にとられる。
ダンナは大急ぎで、ステテコ姿に洋服を引っ張り出して着るものの
足は裸足のままだった。
私もパジャマにガウンをかけただけの姿だったが
とりあえず一室に人を通しておいた。

眼鏡をかけた大人しそうな色白の男は、
ファイルから資料を取り出してダンナと話をしていた。
ダンナに任せておいて、こちらは知らぬ顔で用事をしていると、
「こっちは終わったけれど、今度は君の番だ。」とダンナに呼ばれて、
先ほどのガウン姿のまま部屋に入る。

まず生年月日、出身地、名前が書き込まれる。
「父親の名前は?」という意外な質問に、
ダンナがすかさず「Y」と告げる。
姓と名の間に、父親の名前の頭文字が入るということ。

やがて質問は、問題のナショナリティー(民族)となった。
日本人という欄はもちろん存在しない。あるのは、「その他国籍」だけだ。
そこで、私たちは首をひねった。

「それなら・・・、いっそハンガリー人ということにしてください。」とダンナが言った。
目の前の眼鏡の男がどんな表情をするだろうと窺ったが、
顔色ひとつ変えず、「それでも構いませんよ。」と言う。
「他にも外国人で、ハンガリー人と名乗った人がいましたしね。」
聞くと、スペイン人であったという。

ナショナリティー(民族)は、国籍とは違う。
どこで生まれようが、その人が特定の文化、グループに属しているという
帰属意識が一番たいせつなのだ。
たとえば、ジプシー(ロマ)に関しての正確な数がつかめない理由もここにある。
いくら他人がジプシーと呼んでも、
彼がルーマニア人、ハンガリー人と名乗ればそれが記される。

調査員の男がこんなことを言った。
「私のいとこはアフリカに移住したのですが、
そこで結婚して子どもが生まれて、
やがてその子はルーマニアで医科大学に入りましたよ。
見た目は黒人のようなのに、
口を開くと、どこかの村から来たハンガリー人のように流暢でね。」

そして私に向かってこう言った。
「あなたは、ハンガリー語を話されますし、
子供さんにもハンガリー語の教育を受けさせているのだから、
そう答えておかしいはずがありません。」

「次に宗教は?」と聞かれて、さすがに苦笑した。
「仏教」と答えたら、それは怪しまれてしまうから、
仕方なく「プロテスタント教」ということになった。

こうして私は、ルーマニアの国勢調査によるとハンガリー人であるということになった。
ふつう国籍は選ぶことはできない。
ひとつしか選ぶことができない場合もある。
それでも人は、生まれながらにしても
後になってからでも、二つ以上の民族への帰属意識を持つことはできる。

そして統計の上で、
セーケイ人という数が消えてしまっても、
彼らの意識の中でまだ確実に生きているということも忘れてはならない。






Theme:ルーマニア
Genre:海外情報

comments(2)|trackback(0)|文化、習慣|2011-10-30_03:26|page top